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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
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  血筋5

 本当にそれだけなのだろうか――。


 アレンは追えば追うほど遠くなる吉野の背中を、ぼうっと思い描いていた。

 

 本当に吉野は、キャルのことを、ブラッドリー大臣に対する外交手段として使っているのだろうか。


 そんな訳がないという思いと、それが有効であればあるいは吉野なら、という思い、そして、そんな事をあのお祖父さまが許すはずがないではないかと、憶測は千々に乱れて、ただでさえ混乱しているアレンの頭を掻き乱す。


 

 心配してくれるフレデリックを大丈夫だからと送りだし、アレンは今日の講義を休んだ。二階の自室には戻らず、三階の廊下からベランダに出る。

 吹きつける川風に思わず首を竦めていた。手にしていたコートを急いで羽織る。そして、こんな時期にはそぐわない黒のラタンのガーデンセットに、なんともなしに腰をおろす。

 


 低く広がる曇天が迫りくるようだ。その空に負けず劣らず昏い色を映すケム川も、その川沿いの道に並ぶ冬枯れた樹々も、どうしようもなく寒々しい。


 凍りつきそうにひりひりとする頬を両手で擦る。白い息を手に吐きかける。


 砂漠でも、ロスでも、こんな刺すような空気を吸いこむことはないだろう。吉野はもう、この国の圧しかかるような重たい空が嫌になったのかもしれない。


「もう、戻ってくる気はないのかな――。アスカさんが待っていても――」


「そんな訳ないだろ?」


 アレンの躰が強張って静止したのは、寒さのせいではなかった。


「お前、寒がりの癖にこんなところで何やってんだよ? ほら、戻るぞ」


 ふんわりと両の頬を温かい掌が覆っている。


「ヨシノ……。コーヒーを淹れて」

「うん。ほら、行くぞ」


 バシッと肩を叩かれた。弾かれたように立ちあがり、踵を返したその背中にしがみついていた。回した腕を、吉野の手が握り返してくれる。


「なんだ、どうしたんだ、お前?」


 ぎゅっと力をこめて抱きしめていたのに、吉野はなんなくその腕を外し、くるりとアレンと向きあった。


「俺、しばらくこっちにいるからさ」


 くしゃくしゃと頭を撫でられ、アレンはぷっと膨れっ面をする。


「僕はもう、」

「じゃ、こんなふうに甘えるなよ。淋しがりの甘ったれが」

 くすくすと笑って、吉野はアレンの華奢な肩に腕を回す。

「お前がそんなだからさ、早めに帰ってきたんだ。また悶々としょうもない事で悩んでいると思ってさ」


 え? と怪訝そうに面を向けたアレンのすぐ横で、鳶色の瞳が悪戯っぽく笑っている。


「気にかかってたんだろ? お前の姉貴のこととかさ。心配なら直接俺に訊けばいいのに」


 できる訳ないじゃないか……。


 俯いたアレンを促すように、吉野はまたパンッとその背を張った。


「まぁ、まずはコーヒーだな」





「な、だからお前は好きにすればいいんだ」


 にこにこと目を細めている吉野を、アレンは目を見開いて見つめている。


「キャルはきみと付き合っていると思っていた」

「そんな訳ないだろ。あのレイシストが! 俺のことなんて、連れ歩くのには面白い毛色の変わったペットか何かくらいにしか思ってないよ」

「そんな訳ないよ……」


 他はともかく、吉野に対してそんな扱いができる訳がない。

 アレンは納得できずに唇を尖らせている。


「まぁ、あいつの事はこの際どうだっていいんだ」


 あいつ……。


 またアレンの面に険が走る。


「要はさ、キャルが実質フェイラーを継ぐことになったとしても、爺さんには充分にメリットがあるってことさ」


 

 きっかけは、数年前にブラッドリー夫人が亡くなったことだった。長く精神疾患を患った挙句の自殺だと噂されている。表向きには、事故死と公表されていたが。

 ここにきて、ブラッドリーは彼らの母エレン・フェイラーとの再婚を望んでいるのだという。回復の見込みのないリチャードと離婚し、やり直そうと。そうすれば、自分の娘であるキャルを堂々と後見できる。もちろん、そんな親子の情だけではなく、米国の財閥フェイラー家とより強固な関係を結びたい思惑もあるのだろう。



 だから、これまでの様にフェイラー家の跡取りであるという重責に囚われることなく、好きな道を進めばいいのだ、と吉野は言う。ヘンリーの思惑も、ラザフォード家も気にする必要はないのだ、と。


「きみは、僕がフェイラーを継がない方がいいの?」


 ついそんな嫌味な訊き方をしてしまい、アレンは情けなさから顔を背けた。


「そう思うか?」

「きみは、キャルとブラッドリーの弱みを握っているじゃないか。その方が都合がいいでしょ?」

「弱み……」


 くっくっと、吉野は可笑しそうに笑った。


「お前、やっぱ馬鹿だな。お前みたいなのがフェイラーを継ぐなら、俺、すぐに乗っ取りをかけるぞ。そうだな。そっちの方が都合がいいかな。フェイラーとサウードで、エネルギー価格は想いのままかもな」

「そんな事!」

「させる訳にはいかない、とか言うなら、お前が継げばいい。俺はどっちだっていいよ。大した差じゃないもん」

「僕を揶揄っているの!」


 思わず声を荒げたアレンの前のコーヒーカップを、吉野はついっと持ちあげて流しに中身を捨てた。


「飲めよ。作らせておいて手もつけない。淹れ直してやる」


 湯を沸かし、吉野は黙ったままもう一度コーヒーを淹れる。


「そうカリカリするなよ、お前らしくない。糖分足りてないんじゃないのか?」と言いながら、たっぷりの砂糖とミルクを注ぎ入れる。


「振り回されすぎなんだよ。お前が知っているよりもずっと、世界は多様性に満ちてるんだ。人の恥部をえぐるような、そんな汚い真似をしなくたって、俺も、サウードも、前に進んで行くことくらいできる」


 くるくるとティースプーンでかき回し、渦の鎮まらぬままコーヒーカップをアレンの前にすいっと置く。


「俺はお前のピアノが好きだし、お前の描く絵も好きなんだ。だからさ、お前には、ちゃんと息ができる世界で生きて欲しいんだよ。それだけだよ。打算も思惑もない。それじゃ駄目なのか?」


 僕がきみに望むように……。


 カウンター越しに立つ吉野の視線を感じながらも、アレンはじっと俯いたまま返事をすることができなかった。俯いたまま、膝の上で拳を握りしめていた。そしてやっと、そろそろとカップを持ちあげ、口に運ぶ。


 吉野の言うことが嘘であれ、本当であれ、自分はこうして差し出されるものを、心を昂らせて受け取り続けるのだ。この、苦くて甘い芳香に包まれるまま――。


 アレンは諦めたように微笑んで、ちらりと吉野を見あげる。そして、熱い液体に息を吹きかけ、啜るようにしてちびり、ちびりと味わった。

 





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