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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
652/805

  切望5

 天井を曇らせる細かな雨粒がいくつも伝い落ちるガラスの内側は、南国の植物の生い茂る温かな空間だ。湿った空気に緑が香るなか、籐製のソファーに深く腰かけたヘンリーは、くすくすと喉を鳴らして笑っていた。


「クリスマスはどうするの? ここで迎えてもいいんだよ。皆を招待しよう。でも、いろいろ準備もあるだろ? とりあえず、一度ロンドンへ出ないと。ちゃんとサラと話しあってからだね。僕を通さずにね」


 はす向かいの一人掛けに座る飛鳥は、「でも、」と口籠りながらもぞもぞと落ち着かない。


 婚約発表は、皆の集まるクリスマスに。

 吉野もそういうことなら、と二つ返事で英国へ戻ってくることを承諾した。米国にいるアーネストもクリスマス休暇には帰国する。

 日本にいる杜月氏にしても、久しぶりの再会には良い機会だ。


 ヘンリーの思惑通り、飛鳥は、日本へ戻るというそれまでの決意を忘れてしまったようだ。ふってわいたこの婚約に動揺しきって、対処できないでいる。


 彼は大方、ヘンリーのところにいる。サラを避けているわけではないらしいが。食事やお茶の時間に顔をあわせても、下を向いたままもじもじとしているだけで取りたてて会話もない。

 サラはサラでそんな飛鳥に当惑しているようだ。だが、何も言わない。どう接していいのか判らないのだろう。


 ヘンリーは内心ため息をつき、性急すぎたのかな、とわずかばかり反省してはみるものの――。ことは自分の問題ではないのだ。

 飛鳥の反応はあくまで飛鳥らしい。サラにしたところで、こうと決めれば最短距離で結果をだす。段階を踏んでとか、相手の反応を見ながら、などというまどろこしいやり方など思いつきもしないだろう。


 しかし、だからといって……。


「アスカ、僕はきみの伝書鳩じゃないんだよ」


 苦笑気味にヘンリーが呟くと、飛鳥は拗ねたように唇を尖らせる。


「でも、何をどうすればいいのかまるで思いつかないんだ」

「タキシードを新調する――、時間はないか。確かに、とくにすることもないかな。婚約指輪を買うくらいだ」

「指輪?」

「日本では贈らないの?」


 目を見開いた飛鳥は、慌てて首をこくこくと頷いた。


「ロンドンに行って探さないと……」

「って、さっきから僕も言っている」


 ようやくすべきことを見つけて、ほっとしたように頬を緩めた飛鳥を、ヘンリーはぼんやりと見つめている。


「パーティーといっても身内だけだ。大袈裟に考えなくていい。とりあえず会場だけ決めて。ここか、ケンブリッジか、ロンドンか」


 ヘンリーのすっと沈みこむような声音(トーン)の変化にも、飛鳥は気づかないのだ。そんな彼を、ヘンリーは虚ろに見つめている。


 彼の興奮気味の紅潮した頬を、しっとりとした鳶色の瞳を、落ち着きのない所作を――。


 恋をしているのだな。


 ヘンリーは、声にだすことなく呟いた。彼自身信じられないことに、その認識が、呑みこむ言葉が、どろりと内側で溶けて彼の精神を黒く澱ませているのだ。だが、そんな妄念を振りきって、彼は頭をゆるりと振った。額を押さえるようにして、髪をぐいとかきあげる。


 そして、眼前の飛鳥に微笑みかけるのだ。


 自分に頼り、甘え切っているこの奥手な友人に。初めての恋に戸惑う、なにも知らない温室の花に。


 これでいいのだ。と、自分に言い聞かせながら――。


「アスカ、でもその前にヨシノも交えて話しあおう。お互いに(わだかま)りはとり除いておきたいからね。本当の家族になるのだから」


 飛鳥の表情がひき締まる。神妙に頷く。


「ごめん、ヘンリー。きみを信じていないわけではないんだ。ただ、吉野が……。違う、こんなの言い訳にすぎないね……」


 内心の葛藤に顔を歪め、飛鳥は否定するように何度も首を振る。自分でもどうしようもない想いを抱えているのだと、それは如実にヘンリーにも伝わっている。


 飛鳥の幸せが吉野の望み。


 そのためなら彼はどんなことでもする。自らサイコロを振り、駒を動かす。この世界という盤上で。


 そんな吉野の姿勢を、高みから見下ろすような彼の視点を、飛鳥は恐れているのだ。だが飛鳥はひとつ見誤っている。吉野のことは知り尽くしていると思える彼でさえ、自分や、サラさえもが、彼の駒のうちだとは思わない。吉野の作った柵の見張り台に、ヘンリーが立っていることに気づかない。


 利害が一致する間は協調が崩れることはない。こうすることで、この協調は生涯続くのだ。



「僕のきみへの信頼は、こんなことくらいで揺るがないよ。だから、一人で不満を抱えないで。一緒に解決していこう。僕たちの問題なのだから。ね、アスカ?」


 これまで吉野以外の誰にも甘えることのできなかった飛鳥に、ヘンリーは畳みかけるように言い重ねる。優雅に品のある微笑を湛えて。


「その方がサラも安心するからね」


 とたんに飛鳥は顔を染める。サラを想って。



 自分を映さないその瞳の輝きに、それでも安堵する自分がいる。


 ヘンリーは、そんな自分に苦笑して瞼を伏せていた。






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