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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
651/805

  切望4

 控えめなノックの音に、「どうぞ」とヘンリーは返事する。おずおずと開かれたドアからは、案の定、飛鳥の顔が覗いた。


「もう起きていていいの? 寝込んでるってきいたのに」


 ソファーから立ちあがったヘンリーに、飛鳥はほっとしたような笑みを浮かべている。たったそれだけでヘンリーは安堵を覚えていた。まだ完全に否定されているわけではないのだと、希望を繋げたのだ。


「どうぞ。すまないが、まだ歩き回れるほどでもないんだ。まいったよ。病気なんてしたことがないから、どこまで安静にしていればいいのか判らない」

 冗談めかして微笑む彼に、飛鳥は軽く眉根を寄せる。

「だめじゃないか。具合が悪いならちゃんと寝てないと」


 向かいのソファーに腰をおろした飛鳥は、身を乗りだしてヘンリーをじっくりと見つめている。それから納得したように、「熱があるのかと思った。そんな赤い顔をしているから。照り返しだね」と、ヘンリーには珍しい明るい赤のシェットランドセーターを納得したように見つめて頷く。


「メアリーからのプレゼントなんだ。クリスマスのね」

「言っているうちにすぐだね」



 こんな世間話をしにきたんじゃないのに――、と飛鳥はもどかしげに視線を漂わせている。眼前のへンリーは、赤の照り返しのせいで一見元気そうに見えるが、今まで見たこともないほどに覇気のない瞳をしているのだ。あの輝かしいセレストブルーが濁っているなんて……。

 映像酔いで倒れたと聞いた時も、ここまで虚ろな眼差しはしていなかった。平気そうに微笑んでいる姿が、かえって痛々しくみえる。


 飛鳥はヘンリーに率直な瞳を向けて、ぐっと拳を握りこんだ。


「もしかして、サラの気持ちがきみはショックだったの?」


 思いがけない問いに、ヘンリーはきょとんと飛鳥を見返した。軽く首を傾げる。無造作にかきあげた一房の髪が額に零れる。


「サラはきみになんて言ったの?」

「――本当の家族になろうって。確かな絆があれば、僕が日本に行くことがあっても、ちゃんと戻ってくるって信じられるからって」


 真っ赤になって口籠りながら告げた飛鳥に、ヘンリーはにっこりと極上の笑顔で訊ねた。


「きみの返事は?」

「……まだ」

「どうして? 女性を待たせるものじゃないよ。いくら良く知っている間柄だといってもね」

「だって……」


 おろおろと視線を彷徨わす飛鳥を眺めながら、ヘンリーは顔の上で笑みを貼りつかせている。


「きみは、知っていたの? その、彼女の気持ちを……」

「もちろん知っていたよ。今回のきみの頑な態度のせいで、サラが酷く不安を抱えこんで悩んでいたこともね。僕は出張が多いし、いつでも彼女の傍にいられるわけじゃないからね。ともにすごす時間は、僕よりもきみの方がずっと多い。自然な気持ちの流れだと思ったよ」


 我ながらよくもこうスラスラと言葉が流れでるものだ、と感心しながら、ヘンリーは探るように眼を細めた。


「でも、信じられないよ。今までそんなふうに感じたことなんて、なかったから……」

「きみは呆れるほど鈍いからね」


 ヘンリーは大きくため息をついてみせる。

 確かに、飛鳥の言うことに間違いはないのではあるが。だが、これは本音だ。間違いなく、飛鳥はこういった感情に対して大いに鈍い。他人の痛みには過敏なほどなのにもかかわらずだ。

 いったい何をぐずぐずと言っているのか。ヘンリーにはそんな彼がやはり不思議でならなかった。ずっと想ってきた相手に告白されて、舞いあがりこそすれ、なにを迷うことがあるのか。

 小さな子どものようにギクシャクした素振りの彼は、これはこれで飛鳥らしいと思えなくもなかったが。だが、こんなところで足踏みされては困るのだ。一気に話を進めて、せめて婚約まで持っていかなければ。



「日本にはいつ戻るつもり? せめてそれまでには、サラに応えてやってほしい。もし、今はまだ、きみがそこまでの決心を持てないのであれば、それはそれでかまわないからね。ただこれ以上、彼女を不安にさせないでほしいんだ」


 その方が僕としても気が楽なのだ、と頭で考えているのとは逆のことを口にしている自分に、ヘンリーは苦笑せずにはいられない。


「なんだか、僕の気持ちは解ってるって言い方だね」


 顔を伏せ、上目遣いに自分を見あげる飛鳥は、不満そうに唇を尖らせている。

 ヘンリーは怪訝そうに首を傾げた。


「違うの?」

「そんな、バレバレだった?」


 そのまま飛鳥は傍らのクッションを抱きしめ顔を埋めた。耳まで真っ赤になっている。


 ヘンリーの胃が、じくじくと痛んでいる。


「相手が違うだろ。サラに応えてやってくれ。僕のところに逃げてこないでさ」


 なによりも大切な妹と、なによりも失いたくない特別な人が、永遠に傍にいてくれる。決して切れることのない家族という絆で結ばれて――。



 この絆が、些細な行き違いなどすぐに払拭してくれる。


「きみがサラの想いに応えてくれるのなら、僕としてもこんな嬉しいことはないよ」


 クッションの上の、飛鳥のさらさらの髪が揺れた。承諾の返事だ。


 ヘンリーの胸がずきりと痛む。


「僕はもう、休んでもいいかな?」


 慌てて顔を跳ねあげた飛鳥の瞳に、疲れたような、蒼白いヘンリーの顔が映っていた。愛想笑いする気力も残っていなさそうなヘンリーの、今まで目にしたこともない偽りのない表情。飛鳥は申し訳なさから焦りを感じていた。


「ごめん、大丈夫? 僕になにかできることはない?」

「早くサラに、」

「解っている」

「それからマーカスに、お茶を頼んでくれる?」


 いつもの穏やかな笑みを無理に浮かべたヘンリーに、飛鳥は頷いて立ちあがった。


「ゆっくり休んでいて。ごめんヘンリー、こんなときに。きみにはつい甘えすぎてしまうんだ」

「かまわないよ。きみとサラの一生の問題だもの。僕だって気になって寝ていられないよ」

「きみは、」

「祝福するよ、心から」



 心を決めたのか、飛鳥はぐっと唇を引きしめて頷いた。


「ありがとう、ヘンリー」


 そして緊張した面持ちのまま微笑を浮かべ、彼の部屋を後にした。







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