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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
649/805

  切望2

 久々に訪れたマーシュコートはすでに冬景色だ。空から見下ろす林の樹々はすっかり葉が落ちきって、寒々とした枝を天に向かって伸ばしている。屋敷の前庭の常緑樹の生垣のみが、変わりなくそこに豊かな色をのせている。


 その佇まいにほっと安堵を覚えながら、ヘンリーは自家用ヘリから慣れ親しんだ土地へと降りたった。

 遅れてくることになっている飛鳥の世話をデヴィッドに頼み、一足先にマーカスとともに帰ってきた彼をメアリーが出迎える。


「サラは?」


 いつもなら到着と同時に顔を見せてくれるのに、と訝しく思いながらも、「図書室だね」とヘンリーは自ら言葉を継ぐ。そしてお茶の用意を頼むと、迷うことなくその方向へと足を向けた。




 マホガニーの本棚が二面を占める壁の残る一方、セージグリーンの壁一面に設置されたディスプレイ画面が青く光るなかで、光沢のある赤をまとった小さな背中が一心不乱にキーボードを叩いている。

 久方振りなのに、昨日の記憶の延長のようなその姿に、ヘンリーはふっと微笑を漏らしていた。


 ここは、きみが築きあげたきみだけの城――。

 

 そんなふうに、昔も今も変わらず思っている自分がいる。


「サラ」

 ようやく振り向いたサラの面に笑みが広がり、いつもそうであるように、その身はヘンリーに向かって軽く飛びたつ。


「ただいま」

 額へのキスも変わらない習慣。ヘンリーの目には、サラはこの地で初めて出逢った頃と変わらない、小さな可愛い妹なのだ。誰よりも賢く、なにものにも代えがたい、大切な存在。


「トラブルだって?」

「メンテナンス。もう終わったわ」

「ヨシノの依頼を精査していたの?」


 ヘリの到着する轟音も気づかないほど彼女を集中させるものなど、限られている。窓際のソファーに誘いながらヘンリーはさりげなく尋ねる。サラも取りたてて隠すことでもないようで、その通りだと頷いた。

 


 吉野がサラに持ちこむ案件は、いつも的確に彼女の心を掴む。自分と同程度に彼女を理解しその嗜好を捉えているのは、確かに吉野であり、飛鳥であるに違いない。その吉野の望みをどう処すべきか迷いながら、ヘンリーはサラに向かいあった。


 


 同じ妹という存在であっても、キャルとはあまりにも違いすぎるのだ。その価値も、重みも。こうして向きあっていると、ヘンリーは、その差をしみじみと感じずにはいられない。

 メアリーの淹れた紅茶を微笑を湛えて口に運んでいる彼女は、どこまでも愛おしい。ヘンリーにとってこの穏やかな時間は何ものにも代えがたい。いつまでもこのままでいられれば、とそう願わずにはいられない。


 だが、そんな彼女の口が語るのは、恐ろしく冷徹な事業の話なのだ。吉野からの依頼を一切の情を含まず精査し、ビジネスとして有益であるか、どれだけの利益が見込めるか、現在進行中の他の事業との相乗効果は、と、留まることを知らずに続いていく。


 これほど彼女を退屈させず、夢中にさせる案をだせるのは、あの二人、杜月兄弟だけなのだ。


 微苦笑を浮かべるヘンリーに、サラは不安そうにその口を閉じる。


「ヘンリーは気に入らない?」

 戸惑いを含むその口調に、彼は包容力のある笑みを返した。

「いや、きみが乗り気で良かったと思ってね」

 サラは小鳥のように小首を傾げる。

「なぜ? 断る理由はないと思うの」

「ロバート・カールトンの存在は気にならないの?」


 サラは真面目な顔のまま首を振る。


「問題じゃない。関係ないもの」

「でも、彼の会社のシステムを下地にしているんだろ?」

「あんな稚拙なもの使い物にならない」


 一刀両断だ。この愛らしい姿からは想像もできない辛辣な物言いに、ヘンリーは思わず苦笑を漏らす。


「もっともだね」



 やはり、サラには――。


「もう数日したらアスカも来る予定なんだ」

 

 朗らかなヘンリーの口調に、サラはほっとした様子の笑顔を返した。


「仲直りできたのね」

「喧嘩しているわけじゃないよ」


 ヘンリーはひょいっと肩をすくめてみせる。大したことではないように。サラの前で思い悩んでいる無様な自分など、晒せるはずがないのだから。


「サラ、」


 告げなければならない。いや、その前に確かめなければならない。

 それなのに、ここに来るまでにシミュレーションしていた会話が、本人を目の前にすると途端になし崩しに役にたたなくなってしまっている。

 そんな自分に苦笑し、ヘンリーは軽く頭を振って髪をかきあげた。


「ヘンリー」

「なに?」

「アスカは本当に日本へ帰るの? 私が頼んでもダメ? 怖いの。すごく不安なの。ヘンリーは世界中どこへ行ったって、必ず帰ってきてくれる。だけどアスカは、本当に戻ってきてくれるの? ヨシノみたいに行ったきりになって、もう逢えなくなるんじゃないか、って」

 

 不安というよりも、恐怖を湛えて怯えているようなペリドットの瞳に、ヘンリーは思いがけず、ずきりとした心の痛みを感じていた。そして無意識に表情を強張らせて唇をひき結んでいた。




 

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