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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
648/805

切望

 米国から無事帰国し、帰宅したヘンリーを、いつもと変わらぬ飛鳥の声が出迎える。今までの(わだかま)りが嘘のような自然なその声音に、ヘンリーはほっと息をつく。


「ただいま」

 にこやかに微笑んで、ヘンリーは飛鳥の座るソファーの向かいに腰をおろす。

「こっちは寒いだろ? もう冬だよ」

 薄手のスーツを着ている彼に飛鳥は肩をすくめてみせる。ヘンリーからは、「きみは一年中冬もので済ます気かい?」などと、よくからかわれるのだが、今回ばかりは気候の温暖なロスから戻ったばかりの彼の方が、ここケンブリッジの今の気候にはそぐわない。だからヘンリーも苦笑して頷いた。


「街路樹の葉がすっかり落ちていて驚いたよ」


 わずか一週間ばかりの留守だと思っていたのに、季節は慌ただしく駆けぬけていた。突きぬける青空の広がるロスから、見慣れた曇天が圧しかかる英国へ。夏から冬へ季節も飛び越えてきた気分だ。


「サラはまだマーシュコートだよ。メインのコズモスに手を加えたいからって」

「うん、聴いている。明日には僕も帰るつもりだ」


 穏やかな空気を壊さぬように、ヘンリーは細心の注意を払いつつ飛鳥を見つめている。


「きみはどうする? 一緒に来るかい?」

「どうして?」


 

 まだだ――。

 たかだか一週間くらいで、彼が一度決めたことを翻すわけがない、か。


 内心の苦笑はおくびにもださず、ヘンリーは穏やかに微笑んでみせる。


「ロスでヨシノに逢ってきたよ」

 

 微動だしない飛鳥に、彼は努めて明るく彼の様子を話してきかせた。早速ロスでも新しい友人たちに囲まれていたこと。IT企業の聖地ともいえる、シリコンバレーにも出向いていたらしいこと。


「相変わらず精力的に動く子だよ。それでね、新規事業について聴いてきたんだ。殿下の許でのじゃない。彼自身の事業だそうだよ」

「それで?」

「彼、新システムの構築をサラに依頼しているんだよ。きみはまだ聴いていなかったの?」


 むろん飛鳥が知るはずがない。彼にしても聴かされたばかりなのだ。サラは、その仕事を受けるかどうかは、ヘンリーを通してくれと吉野には返答している。だが承知の事として伝えることで、ヘンリーは飛鳥の素直な反応が見たかったのだ。加えてこの件に賛同する自身の姿勢を、彼に見せたかったのもあった。


 思惑通りの飛鳥の当惑した様子に内心安堵しつつ、ヘンリーは思案するように眉をひそめて見せる。


「ただその新規事業というのがね、曲者なんだ。彼は、ロバート・カールトンとの共同事業にすると言っているんだ」

「カールトン……」

「リック・カールトンの息子だ」


 さすがにこの名がでるとは予想できなかったのだろう。え、と息を呑む音が聞こえた。目を瞠る飛鳥に、ヘンリーはさも困っているようにため息をつく。


「サラにしてみれば、きみたちと同じ、(かたき)の息子だからね」

「吉野は……」


 きつく眉根をよせた飛鳥は、そのまま言葉を呑みこんだ。


 父親がどうであれ、その子どもにまで罪を負わせて憎むような真似を、飛鳥ならばするまい。ヘンリーは彼の鳶色の瞳に浮かびあがる葛藤を冷徹に見極めようと目を細めている。


「パーティーでの様子を見るかい? きみは彼のことをあまり知らないんじゃないかな。まだ学生だしね。ベンチャーの起業家なんだ」


 ヘンリーは努めて明るく言いながら自分のTSを立ちあげて、フェイラー家のパーティーでのスナップ写真を収めた空中画面を、くるりと飛鳥に向けた。

 当惑したままのぎこちない指先で、飛鳥は写真をスライドさせていく。


「吉野はタキシードが似合うよね」

 ぽつりと呟かれた第一声に、ヘンリーは思わずくすくすと笑ってしまった。

「そうだね。僕も会場で同じことを考えていたよ」


「一緒に写っているのは、きみの妹さんかな?」


 飛鳥はあのゴシップを知らないのだろうか? 


 今の不安定な飛鳥なら、そんなところへまで気が回っていないのかもしれない、とヘンリーは余計な事は告げるのは止め、「フェイラー家のパーティーだからね」といささか素っ気ない素振りで呟いた。

 だがまだ飛鳥は小首を傾げている。あの小説に書かれている事は事実である、という認識であれば、吉野がフェイラーのパーティーに出席できるはずがないからだろう。

 

 まったく見事としか言いようがない。吉野は動かずして飛鳥の疑念の一部を拭い取ってくれた。


「ヨシノはキャルとも親しくしているようだよ。ニューヨーク支店のイベントの時に面識があったらしいよ」

 

 そう聞いたのは本人からではなく、アレンからではあったが。


「きみはどう思う? やはり、ロバートとの事業は反対かい?」


 おそらく内心では新たに得た情報処理に必死であろう飛鳥に、ヘンリーは畳みかけるように問いかけた。少し心配そうに眉根をよせて。情に揺さぶられやすい飛鳥の気を惹きつけるように、物思わしげに。


「どうって、きみとサラが決めることだろ? 僕が口を挟めることじゃないよ」


 突き放すような言いぶりながら、飛鳥の口調は弱い。


「吉野はリックへの感情とは別に、真面目にこの事業の発展を考えているんだ。いずれはTSに続くアーカシャーの柱になるってね。きみだって無関係ってわけにはいかないだろ?」


 飛鳥の困惑が手に取るようだな、と思いながら、ヘンリーは流れるように話し続ける。


「細かな内容は僕よりもサラの方が詳しいんだ。だから、きみも一緒に来てほしい。サラはきみに遠慮しているんじゃないかと、僕は思っているんだ。相手はカールトンだからね。普通の事業のようには冷静に判断できないだろ?」


「僕はべつに……」


 べつにどうなのか――、飛鳥は答えられなかった。




 

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