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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
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  決意5

「すまないね、ずいぶん待たせてしまって」

 隣室から出てきたヘンリーは、なんともいえない複雑な笑みを湛えていた。

「かまわないよ。きみが会社を優先するのはいい傾向だ」


 そう、珍しいことなのだ。ヘンリーがチャットだのテレビ電話だので、こうも時間を潰すのは。連絡事項はいつも簡潔に要件だけ。それが彼のポリシーでもある。

 アーネストはホテルの一室から広がる摩天楼を背に、くたびれた様子でソファーに身を投げだした彼を揶揄うように眺めている。だが当のヘンリーはじっと考えこんでいるのか、眉をしかめたまま首を軽く振る。


「会社じゃない。私信だよ」

「サラ?」


 アーネストはわずかに表情を曇らせた。彼女はこういった通信手段が好きではないのだ。だから彼女自ら連絡してくるとなると、何かトラブルがあった時に限られる。そんな彼の懸念を察し、ヘンリーはふわりと微笑んだ。


「会社の方は問題ないよ。サラじゃないからね。アレンなんだ、長話の相手は」

「へぇー、きみら、いつの間にそんな兄弟仲を深めていたんだい! 驚いたよ!」

「仲がいい、というのは違うな。要件は主にアスカのことだったからね。それから――、まぁ、あの子もまんざら馬鹿でもなかったってことだよ」

「ああ、キャルのことか。確かに気にはなるだろうね、あのフェイラーのお祖父さまが黙って見ているなんて考えられないだろうしね。ヨシノのことが心配なんだろうねぇ」


 飛鳥の件ではもう散々に言い散らしていたので、アーネストもさすがに蒸し返すのはやめておいた。当面の問題の方へと話を振ると、ヘンリーはまたもゆっくりと頭を振る。


「あの子が心配していたのはキャルの方だよ。祖父はヨシノには手を出せない。逆にキャルを使ってヨシノを懐柔するように仕向けるだろうって。キャルは甘やかされて育てられているからね、祖父の恐ろしさが解っていないってさ」

 くっくっと喉で笑うヘンリーに釣られるように、アーネストも頬を緩めた。

「甘やかされて、って彼だってそうだろうに」

「それは違うよ。キャル自身は祖父にとっての価値はないからね。あの子に対してとは根本的に扱いが違う」


 高度な教育は施されていたとはいえ、屋敷に閉じこめられて暮らし、その中で徹底して冷遇されて自ら這いあがることを強いられてきたアレンとは違う。文字通り、蝶よ花よと甘やかされて育てられたお姫さまなのだ、あの娘は。


 妹の話をするさいの、(つね)変わらないヘンリーの冷え切った視線に、アーネストは吐息を漏らさぬように呑みこんだ。それでも、(アレン)とは互いがそんな会話をできるほどに関係が改善しているのだ、と思えば胸を撫でおろさずにはいられない。今のヘンリーにとって、サラだけがすべてではない。それだけで安堵できる。


「それにしても、どうしてフェイラーがあの子に手をだせないって?」


 ふっと、アーネストにさきほどの一言がひっかかっていた。パリでも、フェレンツェでも、吉野は二度も命を狙われたのだ。あれはフェイラーの意図ではなかったのか? 彼の問いに、ヘンリーは意外そうに軽く眉根をあげる。


「話していなかったっけ? ああ、そうか……」


 ヘンリーは記憶を探るようにいったん言葉を切って目を細める。そして納得したのか、頷きながら話を継いだ。


「パリのテロに乗じてヨシノが狙撃されただろ? フェレンツェでの事故はその報復だよ。あれはヨシノを狙ったんじゃない。ターゲットはアレンだ。指示したのはマルセル・ボルージャ。ルベリーニのスペイン分家だ」

「フェイラー相手に宣戦布告かい? やるもんだね、ルベリーニも!」


 よほど驚いたのか、アーネストにしては珍しく頓狂な声をあげる。


「フェイラーはルベリーニと縁戚関係にあるからね。まさかの展開さ。祖父も、ヨシノがここまでやるとは思っておられなかっただろうね」

「まぁ、そこに関してはこっちも同じだけどねぇ」


 ため息をつき、アーネストは肩をすくめてみせた。


 ちょっと目を離すと、どこでなにをしでかすか解らない。相変わらずの駄々っ子だ、吉野は――。


 翻弄されているのに。アーネストの口許から思わず笑いが漏れてしまう。時にその冷淡さに眉をひそめることがあっても、どうも憎むことも、見限ってしまうこともできないのだ。あの子のために、こうして米国まで足を運んでくるヘンリーの気持ちも解らないでもないのだ。


「あの方、今回はどうでるのかな。エリオットの件でも、ヨシノにいいようにされていたんだろ? さすがにアレンの懸念も杞憂ではないって気もするんだ」


 物憂げなヘンリーの様子に、アーネストは意外そうに彼を見つめた。

 こういう場面では、普段の彼なら面白そうに笑って見ているのだ。吉野の心配をしているのではないのだろう。ということは妹の方か。彼にキャルに対するそんな情があったのか。

 ある意味興味本位といっていいアーネストの視線に気づき、ヘンリーは苦笑を浮かべて応えた。


「ほら、エリオットでのアレンの誘拐事件、覚えているだろ? 祖父は知っていたんだよ。あの時の主犯、オズボーンと祖父は懇意にしていたからね」


 知っていて、自分の孫を誘拐する行為に目を瞑った。もちろん命や身体を危険に晒すことはないようにという約束事はあったのだろう。だが、そこにアレンの受ける精神的なショックや苦痛への配慮はない。吉野とアレンを引き離すのに都合の良い話であれば、そんなものは問題ではないのだ。だから吉野にしろヘンリーにしろ、アレンに事実を告げはしなかった。だが、アレンは自分でその事実に行き着いている。それゆえに、キャルのことを案じているのだ。祖父は手段を選ばぬ人だから、と。


「でも、キャルのことだって所詮は建前にすぎないんだ。あの子と話していて、僕たちはつくづく兄弟なんだって実感したよ。これがあの女の血なんだな、ってね」


 物憂げに嗤うヘンリーを、アーネストは眉根をよせて厳しく見据えた。


「今は問題が違うだろう? ヨシノの首に縄をつけて引っ張って帰ればいいのさ。あの子たちの問題にまでこっちが首を突っこむ義理はないよ」


 「解っている」とヘンリーは軽く微笑んだ。だがその口調は、言葉とは裏腹にどこか投げ遣りで、心中の遣りきれなさから解放されてはいないようだった。






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