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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
642/805

  決意3

 肩を叩かれて、眼前を食いいるように見つめていたアレンは、びくりと面をあげた。訝しげに小首を傾げて振り返る。

「大丈夫?」

 何度も声をかけたあげくようやく気づいてくれたアレンの強張った表情が、ふわりと緩む。フレデリックもまた、ほっとしたように微笑んだ。彼の傍らに腰をおろし、さりげなくその手の中のTSネクストを一瞥する。


「見ない方がいいよ。気分を悪くするだけだ」


 眉をひそめて表情を曇らせる友人に、アレンは柔らかな笑みを湛えて頭を振る。


「うん。見ていないよ、自分のはね。そうじゃなくてね、」と、なんともいえない戸惑いがちな声音で応えて、ついっと彼はフレデリックの前に空中画面を滑らせた。そこに映る写真と記事に、フレデリックは唖然と見入り、表情をますます険しくして呟く。


「根も葉もないゴシップだよ」


 吐き捨てるように言い、芝生に手をつく。ちくちくとした葉触りと柔らかな地面の感触は、もやもやとした彼の中の鬱積を放電しているような気分にしてくれる。

 半透明に透ける画面の向こうには、ゆるやかなケム川が弛みなく流れている。曇天に覆われる日が多くなるこの時期になると、夏には大勢見かけた観光客や、日光浴にいそしんでいた学生ともそうそう居合わせることもない。冬枯れて寒そうな腕を晒す樹々、冷たく肌をなぶる川風さえ我慢すれば、ひと目を気にせずくつろげる穴場なのだ。


「そうかな?」


 無理に笑みを作ろうとするアレンに、フレデリックは眉をしかめて首を振る。


「こういうゴシップ記事がどれほどでたらめで、興味本位な無意味なものか、きみだって知ってるじゃないか」


 腹立たしさと、情けなさで内心の動揺はいかんともし難かったが、フレデリックはアレンを励ますためだと、努めて落ちついた声音を心掛けている。



 この繊細な友人を、フレデリックは自分自身の手で傷つけてしまった。傷つけることが判っていてなお、書きたかった。世に出したかったのだ。

 世間から好奇の視線に晒されることになっても、それは自分の望みでもあるのだから、と静かに微笑んで責めることをしないアレンの変わらなさに、彼の内部では安堵と焦燥がせめぎあっていた。


 あの小説を世に放ったところで、吉野もまた、変わらなかった。変わらないどころか、さらにアレンを追い詰めるゴシップを世間に提供している。自ら進んで彼をいたぶってでもいるかのように。


 今、吉野は米国にいる。そう聞いたときよぎった不安が的中した。それはフレデリックの想像を超えて思わぬ展開をみせている。アレンから示されたゴシップ記事を信じたくないのは自分の方だ。だからこれはアレンにではなく、自分自身に向けての言葉だ。


「ヨシノはキャルなんか相手にしない」

 同意を求めるような寂しげな微笑みに、フレデリックは強く頷き返した。

「考えられないよ」

「でも、キャルの方は解らない。なんだかね、僕たちは似てるんだ。手に入らないものばかり欲しがってしまう」


 深いため息が、アレンの口から漏れていた。


「今ね、兄もロスにいるんだ。ヨシノに逢いにいってる。僕は兄と話さなきゃならないのに。兄はいろいろと誤解しているから……」


 悩ましげに、常よりも紅い唇を尖らせるアレンの頬に、フレデリックはしかめっ面をしてそっと手の甲を当てる。


「きみ、冷えきってる。次のクラスまでお茶でも飲もう。顔色が悪いよ」


 さし出された手に手を重ね、アレンは苦笑を浮かべて立ちあがる。握られた手が温かい。一人ではないとその温もりが教えてくれた。


「ヘンリー卿が向こうにいらっしゃるのなら、この馬鹿げたゴシップもすぐに下火になるに違いないよ」


 肩を並べたアレンに、フレデリックはにっこりと微笑みかけた。



 自分の小説の時も、騒がれるのはSNSのなかだけで、国内での報道はあっという間に鎮静化されたのだ。だがそれはおそらく、報道規制をかけたであろうヘンリーにとっての弟であり、フェイラー家の跡取りでもあるアレンの問題だからではない。それどころか彼は弟のゴシップでさえ体のいい宣伝のように扱っていると、フレデリックには思えてならなかった。


 ヘンリーにとって注目されて欲しくないのは、吉野なのだ。小説の中の人物と吉野が紐づけられることのないようにと、原稿の段階から彼は注意を受けていた。

 世間一般には、彼の書いた小説(フィクション)のモデルが、今を時めくマシュリク国皇太子サウードの政治顧問であるなどと知られているわけではない。あくまでゴシップネタは、アーカシャーHDの専属モデルを務めるアレン一人だった。



 吉野にだけ伝わればいい、そんなアレンの想いの結晶の物語。だからフレデリックは出版に踏み切ったのだ。これが巻き起こす逆風をものともせずに。


 それなのに、吉野の想いは見えないままなのだ。


 掌中の珠を慈しむように大切に守ってきたアレンを、彼はどうして今になってこの寒空の下に放りだすのか――。

 たった一人で、こんな侘しい景色の中で孤独に打ち震えさせるのか――。




「きみが解らない」


 ぽつりと呟いたフレデリックを見遣り、アレンはにこやかな笑みを刷いた。


「なに? 今、なんて言ったの?」


 吹きつける北風に首をすくめ、フレデリックは微笑み返す。


「寒いね。ロスはもっとずっと暖かいんだろ? 僕も行ってみたいな」






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