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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
637/805

  幻視7

 ヘンリーの書斎のマホガニーの本棚には、豪奢な装丁の希少本ばかりが並んでいる。それらの本を手にとり開く暇などないというのに。インテリアとしてそこに在るにすぎない数多の本はそれでも、居並ぶとりどりの背表紙に彼の視線を据えるだけで救いになっていた。この本の中に求める答えがあるのだ、と。これらの書物は希望を与えてくれていた。これまでは――。


 知識として知ることと生きることにこれほどの乖離があることを、ヘンリーは今まで知らなかった。

 正しい思考は正しい行動を促し、相応の結果を導きだす。それが道理というものだ。

 世の中がいかに理不尽で割り切れぬものであっても、己がそれに流されずにいさえすれば、道は正され開かれた未来に繋がる。そう信じることができるからこそ、人は歩み続けることができるのではないのか?


 けれど飛鳥は混沌だった。彼の理屈は通用しない。彼の思考は常に情に流され、生産性のない屁理屈で埋めたてられる。ヘンリーはいつまで経ってもそんな彼のことが理解できないままなのだ。

 数字では動かない飛鳥と、数字でしか動かない吉野の織りなす縦糸、横糸。その完成図はこの二人にしか見通せない。どうやっても――。

 

 解らないのであれば、あの稀有な才能だけを摘みとって活かせる道を探せばいい。それが互いにとっての最適解。そう頭は何度も囁くのに、心は頑なに頷こうとしない。一分一秒たりとも、彼を手許から離すのは嫌だと駄々を捏ねる。我儘な幼子のように。



 傾けたグラスの中で、氷塊が転がり音をたてた。

 わずかな光源に煌めく艶やかな透明に、再度琥珀色の液体を注ぐ。冷えた心を温め、不快に支配される脳髄を痺れさせ、忘れさせてくれるもの――。



「ヘンリー」

 柔らかで控えめなサイドライトが照らすだけの、大半が薄闇に沈んでいる室内に明かりが差しこんだ。遠慮がちにドアから顔を覗かせたサラは、どこか不安気でふわりと漂っているように安定感がない。


 安定感がないのは僕の方だ――。


 ヘンリーは深く息をついて軽く頭を振る。


「なに? おいで、平気だよ。ちょっと酔っ払ってはいるけどね」


 自嘲的に嗤い、ヘンリーは手にしていたグラスをローテーブルに戻した。一人掛けソファーの肘かけに腕をたて、その重たげな頭を支える。サラは唇を尖らせて小鳥のように小首を傾いだ。だが一瞬の迷いの後、ドアを開け放ったままにして、兄の書斎にそろそろと足を踏みいれた。


 サラが誰かと個室に二人きりになる時、その部屋のドアは開けたままにしておくのがこの家の規則だ。同じ部屋にいるのが、仕事として一日の大半をすごすことさえある飛鳥でもそうだし、兄であるヘンリーであっても例外ではなかった。加えてこんな遅い時間に彼女がここへ入ることを、兄が許してくれたことはなかったのだ。



「アスカが日本に帰ると言うんだ」

 サラが向かいの長ソファーに腰をおろすのを待ちかねたように、ヘンリーは抑揚のない声音で呟いた。

「これでも頑張って説得してみたんだ。でも、だめだった」


 サラは大きな瞳を見開いて兄を凝視する。しだいに綺麗な弧を描く眉が歪められ、明るいペリドットの瞳が訝しげな色に曇りはじめる。


「なぜ?」

「彼は僕のことが嫌いだから」


 深いため息に混ざる甘やかな、そしてどことなく刺激的な花の香りがふわりと離れているサラにまで届いていた。サラは眉をよせて押し黙る。こんなだらりとしたヘンリーを、今まで目にしたことはなかったのだ。酒を飲んでいる姿も――。


 カラン、と溶けた氷が沈黙を破る。


「どういうことなの? さっぱり解らない。解るように説明して」


 気怠げに睫毛を伏せる兄の物憂げな様子に、サラはわけも分からないまま苛立ちはじめていた。


「僕は彼にとって、何者でもないってことだよ」


 哀し気な吐息のような声。ヘンリーが発したとは思えないような。


「信じられない」

「僕もだ」


「嘘よ。アスカがそんなこと言うはずないわ」

「そう。そう言ったわけではないよ。表向きはね」


 ヘンリーはサラから目を逸らしたままだ。


「サラ」

 伸ばされた兄の手を握るために、彼女は立ちあがる。彼の傍らに佇んでその頭をかき抱く。腹部に押しつけられた頬はとても熱い。柔らかな蜂蜜色の髪を優しく梳く。ヘンリーが、幼かった彼女にしてあげていたように。


「アスカを行かさないで。ひき留めて。僕は、彼を失うのだけは我慢ならないんだ」


 いつも自分を守ってくれていた腕が、今は縋りつくようにか細い自分の背中に回されている。いつかのように。かつて自分に行くなと懇願した唇が、今は飛鳥を行かせるなと切望している。



 サラはぼんやりと記憶の中の光を見ていた。明るく燃えあがる暖炉の焔を。


「ずっと傍にいるわ。――私も、アスカも」


 開かれた口の端から零れ落ちたのは、過去の記憶か、今の約束か――、それは、サラ自身にも判らなかった。






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