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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
635/805

  幻視5

 ちゃんと話しあわなければ――。と、会社から戻るなりヘンリーは迷わず飛鳥の部屋をノックした。返事がない。まさかもう……。逸る気持ちを押さえて根気よく何度もドアを叩く。


「アスカ、」

 感情をだしすぎぬように気遣いながら呼びかける。


「アスカさんならお庭にいらっしゃいますよ。上着を着てらっしゃらなかったので、坊ちゃん、行かれるなら届けてもらえます?」


 隣室からひょっこりと顔をだしたメアリーが、腕にかけていた飛鳥のコートを軽く持ちあげてみせていた。




 居間のガラス戸を開けると、辺りはすでに仄暗かった。階段を上りきった地点から、足元のランプに一足ごとにぽつりぽつりと灯りが点り、闇の中に道をつくっていく。日中は陽気のよい日だったとはいえ、陽が落ちると一気に気温がさがる。時折梢を騒がせる風が刺すように肌を嬲って通りすぎる。


 いつまでもこんなところでぼんやりしているはずがない、と訝しみつつも、飛鳥なら……、との懸念も捨てきれず、ヘンリーは薄闇の中を目を凝らす。白々としたテラスから、いまだ色濃く残り香を漂わす薔薇園、ゴールドクレストの狭間に見え隠れする空き地のベンチ――。


 やはり、あそこか。


 寒空の下にいてくれた方がまだいいわけできるものを。苦々しい思惑は裏切らない飛鳥の閉ざされた心情を想い、ヘンリーは歯噛みする。


 なぜこうも彼は変わらないのか。どれだけ同じ月日を寝食をともにして家族のようにすごそうと、家族にはなり得ないのだ。仲間ですらないのかもしれない。友人、同僚、知り合い――。自分は彼にとって、通りすぎていくだけの他人にすぎないのではないか……。

 闇に侵食されるようにヘンリーは重みを増していく心をもてあましながら、足取りだけは軽やかに一直線に進んでいく。




 ふっと途切れたゴールドクレストの影絵のような輪郭線から、星空が広がる。遥かな高みから落ちてきたような輝きを宿した温室が、ぼうっと柔らかく透き通る蔦の緑に包まれて浮かびあがっている。


 ヘンリーはその前で足を止め、深く息を吸いこんだ。そして、静かに音もなくガラス戸を開けた。


 湿った空気。濃い土の香り。そんな中で飛鳥は眠っている。また、眠っている。出逢った頃のように、ヘンリーから目を逸らすために意識を閉じる。

 そんな彼を目の当たりにするのは、解っていても気が塞いだ。

 これまで意見の対立などいくらでもあった。その度に話しあい、互いを確認しあって乗り越えてきたではないか。何度自分にそう言い聞かせても、今回だけは勝手が違うのではないか、と心の奥底が意に反した警鐘を鳴らすのを止めないのだ。


 それでも、彼が自分から離れていくことを、許すわけにはいかない。互いに理解しあい歩み続けることを、諦めるわけにはいかないのだ。


 この手をさし伸べ、その運命を握り締めたあの日から。


 ソファーに横たわる飛鳥の足下へそっと腰を据えたヘンリーは、声をかけることはせずに、ただ静かに寝息をたてている彼を眺めていた。



「僕はきみに対して怒っているわけではないんだ」

 眠っていると思っていた飛鳥が、不意にそう呟いた。


「判らなくなったんだ」

 瞼を閉じたまま身じろぎもせず、話しかけているというよりも独り言のように飛鳥は続けた。


 吉野が――、と喉元まででかかった。だがヘンリーは息とともにその名を呑みこむ。


「なんのために自分がここにいるのか判らない。今までしてきたことの意味が判らない。判らないんだよ、ヘンリー」

「きみはきみの夢を生きている。そのためにここにいる。夢を現実にすることが、きみのこれまで歩んできた道だ。これまでずっと、そうだったろう? そしてこれからも――」


 飛鳥は右腕を持ちあげて両瞼を覆い隠すようにのせ、深く嘆息する。


「僕の夢……」

 その唇の端が皮肉げに歪められる。

「僕の夢は、吉野が、誰からも命を脅かされることなく、自由に羽ばたいてくれることだよ。それがこんな……、僕のために鎖に繋がれ、鳥籠で飼われるあいつを見るざまになるなんて、こんな、僕のせいで――」


 飛鳥の怒りの理由にやっと合点がいき、ヘンリーはほんのわずかに表情を曇らせた。なにを言えば、どんな言葉なら飛鳥の怒りを解くことができるのか。全神経を集中させて思考を巡らせる。


 それは誤解だ、と言ってしまえればどれほど楽になることか……。


「言い訳はしない。あの子のあの特殊な才能を知ったとき、僕は確かに魅せられた。きみを知ったときと同じように。でも、決して彼を会社のために利用したんじゃない」

「解っている。きみがあいつを利用したわけじゃない。あいつが、吉野が自発的に動いたんだ。解っているよ、僕のためだ。僕が、ここにいるからだ。――きみの、手の内に」


 だから、僕の許にはいたくない。と、きみは言うのか……。


「きみが僕のものだったことなんて一度もないのに、きみはそんな酷いことを言うんだね? アーカシャーを捨てるの? できもしないことをなぜきみは望むんだい? ヨシノはヨシノの意志で籠に繋がれ、きみはきみの意志でここにいる。きみがどこに行こうと、あの子が自ら自由を選ぶことなんてない。解っているはずだ」


 ヘンリーはついに堪らず思いの丈を吐きだしていた。傷つけまいと、決して追い詰めまいと決めていたことを。口にしようとしまいと、自分の想いが彼に届くとは思えなかった。そんな諦念が(せき)を切って彼の口から溢れでたのだ。





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