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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
632/805

  幻視2

 コンピュータールームのドアをノックしようと持ちあげた拳をため息に変え、ヘンリーは踵を返して廊下を奥へと進んだ。

 最奥にあるサラの部屋を、三回ノックする。子どもの頃から変わらないヘンリーの合図に、サラは勢い良くドアを開けた。


「おかえりなさい」

「ただいま」


 いつものキスを額に受けて、サラはにっこりと背伸びして兄の頬にキスを返す。

「どうしたの? わざわざ部屋にくるなんて珍しい」

 大きなライムグリーンの瞳をさらに見開くようにして自分を見つめる妹に、ヘンリーはちょとはにかんだような、困ったような笑みを返した。


「食事はもう済んだ? アレンやデイヴが向こうに移ってから疎かになっているんじゃないかと気になってね」

「私の? それともアスカの?」


  家にいる者は揃って食事をする、その規則が守られなくなって久しい。発端は、飛鳥が体調を崩し寝こんでからの、無理に誘うことが精神に負担をかけていたのではないかとの、ヘンリーの過剰な気遣いではなかっただろうか。それでもデヴィッドのいた間は、ひき籠りがちのアレンと一緒に、飛鳥をも部屋からつれ出してくれていたのだ。



 一瞬、口許を強張らせたヘンリーを気にすることもなく、サラは彼の腕に自分の腕を回し、ひっぱりながら歩きだす。


「コンサバトリーでお茶にしましょう。早く見て欲しいの!」



 大学の新歓イベント期間も終わり、新作を発表したフレデリックの周囲も少し落ち着いてきたということで、アレンは大学に近いフラットに戻っている。だが、小説のモデルと容易に想像できるアレンへの世間の興味が立ち消えたわけではないので、警戒と牽制を兼ねてデヴィッドがしばらくは彼らのフラットに滞在することになったのだ。彼は、アレンと共同の企画書を仕上げるためにもその方が良い、と二つ返事でひき受け意気揚々と出向いていった。それからもう何日にもなる。

 



 物思いに耽りながら廊下を移動していたヘンリーの腕を、サラが強く引いた。ふっと我に返り、ヘンリーは面をあげる。


「見て。ついさっき届いたばかり」


 薄闇の中、廊下から漏れる灯りを反射して鏡のように室内を映していたコンサバトリーのガラスに、明るいパステル調の色彩が広がりはじめている。ヘンリーは後ろ手にドアを閉め、立体映像投影機を操るサラの傍らに腰をおとした。


「子どもの落書きみたいだね」


 クレヨンで塗った青い空。丈の低い草原に、次々と線描きの拙い動物たちが走り回っては消えていく。


「子ども部屋に? デイヴらしいね」


 表情を緩ませて微笑むヘンリーに、サラは声を弾ませて説明し始める。


「朝昼晩で空の色が変わるの。アスカの作った砂漠の街の映像みたいに。草原も、風でなびいたり、花が咲いたり」


 早送りで再生される、目まぐるしく変化していく景色に、ヘンリーは目を細める。青空から夕暮れに、そして夜空へ。移り変わる頭上には、大小様々の尖った星々が瞬いている。


「それでね、組みこまれている動物以外に、自分で描いた花を加えたり、動物を走らせたりできるの。どう、面白いと思わない?」

「子どもたちが喜びそうだ」

「『落書きの部屋』ってアレンは言っていたわ」

「彼のアイデア?」


 頷いたサラに、ヘンリーはふうん、と気のない返事を返し、すっと立ちあがった。説明に夢中のサラは気づかなかったが、開かれたドアの向こう側でマーカスがお茶を持って佇んでいた。


「映像を止めて。少し疲れた」


 ヘンリーはマーカスを招きいれると、サラにもソファーに来るように促した。文字通り、映像を消すのではなく一時停止させたなかで、ヘンリーはお茶を注ぐ執事ににこやかな笑みを向けて意見を求めた。


「マーカス、きみはどう思う? この部屋で子どもを育てたいと思う?」


 マーカスは静かにお茶を淹れ終えると、主人の前に置き、眉根をあげてぐるりと辺りを見回す。


「そうでございますね、プレイルームとしてならよろしいかと」

「僕も同意見だ。でも、サラは気に入っているんだろ?」


 サラはちょっと唇を尖らせて頷く。どこが気に入らないの? と瞳が問いかけている。


「アスカはなんて? 彼が描いたみたいな絵だけれど、そうなのかな?」

「彼はまだ見ていないの。フランクフルト支店の映像ディスプレイの調整にかかりっきり。――今日は顔もあわせてない。ごめんなさい」


 あっ、とサラは慌てて言いわけがましく言い加えた。すっと眉をひそめたヘンリーを上目遣いに見遣り、肩をすくめて消えいりそうな声で謝罪する。自分が守るべきこの家の規則を忘れていた。飛鳥と一緒に食事をしなかったことを思いしたのだ。


「彼を心配なされておいでなら、お食事はちゃんと済まされております」

 マーカスが取りなすように口を挟む。ヘンリーは軽く微笑んで頷いた。


「アスカでないなら、この映像はきみが作ったの?」

 サラはゆっくりと顔を振る。

「デヴィッド。それに本社の研究室の研修生だって」


 なるほどね、とヘンリーは独り言ち黙りこむ。


 気まずい沈黙にサラはそわそわと辺りを見回して、ついに所在なさげにマーカスを見上げた。


「ねぇ、マーカス、どうしてこの部屋が気に入らないの?」

「気に入らないのではございません。ただ、お子さま方にとってはあまりに心躍る環境では、(たかぶ)りすぎて、ゆっくり休めないのではないかと」

「そう?」


 小首を傾げてサラは不満げな顔をする。


「サラなんて部屋中に数字を飛ばして、一晩中でも遊んでいそうじゃないか」

「だめ?」

「子どもはちゃんと寝ないとね。それに大人もね。アスカの様子を見てくるよ」


 立ちあがり、すれ違いざまヘンリーはサラの頭をさらりと撫でた。


「マーカス、コンピュータールームにもお茶を頼む。それからサラ、僕はアレンの案、反対ってわけではないからね。まだ二人には僕の意見は伝えないで。先にアスカと話してくるよ」


 それだけを言い残して、ヘンリーは足早にこの明るく賑やかな色彩の躍る部屋を後にした。サラはローテーブルに残された手のつけられていない紅茶を眺めて膨れっ面をし、次いで吐息を漏らしていた。






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