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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
631/805

幻視

 住宅カタログやインテリア雑誌で埋めつくされたローテーブルから、次々と雑誌を取りあげてはぱらぱらと捲り、放り投げ――、を繰り返していたデヴィッドは、難しい顔つきを崩さないままじっと黙りこんで、いきなりその動きを止めた。

 向かいに座るアレンは、遠慮がちに彼をちらちらと眺めては、同じくローテーブルの上に開き置かれている雑誌の数々に視線を走らせている。だが、いかにも不快げな彼の表情が気にかかってしかたないのだ。膝の上に置かれた彼の手は、不安にかられて固く握り締められていた。


「あー! こんなんじゃ、まるで駄目! ありきたりの部屋じゃ意味ないじゃん! TSでなきゃ表現できないようなインテリアが欲しいんだよ!」


 とうとうデヴィッドは、もう見るのも嫌! といわんばかりにローテーブルの上の雑誌をすべて薙ぎ払って、バサバサと床に落とした。


「マーカスにお茶を頼んで! いや、やっぱりコーヒー!」


 アレンはそそくさと壁の内線でマーカスに要件を告げる。

 ドサッ、という大きな音に驚いてびくりと振り返ると、デヴィッドはソファーの背もたれに身を投げだして、ちょうど視界の正面にあるロートアイアンの手摺りの奥に見え隠れしているパソコンルームをぼんやりと見つめていた。


「アスカちゃん、いつになったら機嫌直してくれるのかな……」


 アレンもソファーの前で立ち止まり、心配そうに階上を見あげる。


「すみません。僕のせいで……」

「え~、きみは関係ないよ! 悪いのは全部ヨシノ! それに、僕! あの時の事情からするとねぇ」


 デヴィッドはため息交じりに、乾いた笑いを口から漏らす。


「まったく何年前の話だってんだよ! なにを今さらって感じ。ホントにアスカちゃんは!」

「でも、」

「でも、もなにもないでしょ! きみは堂々としていればいいの! アスカちゃんは淋しいだけなんだよ。ヨシノに長い間逢ってないからさ」


 それでも――。


 小説の中で目にした経緯(いきさつ)は、アレンが認識していた以上の内容でもあったのだ。フレデリックからこの夏、吉野を訪ねた折に聞いた話も加筆した、と聞いてはいたのだが――。


 今、自分がこの場にいるということ。


 ただこのためにだけ吉野が払った代償を考えると、アレンは平身低頭して飛鳥に詫びずにはいられない心持ちだった。くわえて世間から歪に受けとられても仕方のない自分の吉野への想いのことも。

 事実、アレンはその通りにしたのだ。

 その場で飛鳥は常と変わらず、「きみが気に病むことじゃないよ。あいつが自分の意志でしたことなんだから」と優しく微笑んでいた。そして、「きみがどんなにあいつのことを大切に想ってくれていたか、僕は知っていたつもりだよ。これでもずっと見守っていたんだ。きみが恥じることなんて、なにひとつないよ」とも言ってくれた。



 それなのに、彼は部屋から出てこなくなった。食事にもおりてこないのだ。溜まっている仕事はこなしているらしいから、病気というわけでもない。


 互いが互いの存在を意識しあっているのに、ほとんど口をきかない。そんな日々がもう一週間も続いている。



「アスカちゃんの機嫌があれじゃあ、ヘンリーがやる気をなくしてどうしようもなくなるんだよねぇ……。世界広しといえども、人工知能が社長やっている会社なんてうちぐらいのものだよ!」


 大袈裟にデヴィッドはため息をつく。アレンはますます肩身の狭い思いを深めながら、俯いたまま自分の影を朧に映す艶やかなローテーブルの表面を凝視していた。


 自分のせいだ。

 これが、考えなしに吉野に甘え続けていた自分がひき起こした結果なのだ。飛鳥や兄が、腹立たしく思わないはずがない。こんな――。


 アレンはきゅっと噛んでいた唇を緩め、深く息を継いでから、おもむろに傍らに置いていたTSタブレットをもちあげた。





 コーヒーの芳香とカチャリとカップの置かれた音に、アレンははっとして面をあげる。カップを片手に自分を眺めているデヴィッドと目が合った。


「すごい集中力だね」

 にっこりと笑い、彼は顎をくいっとあげてアレンのコーヒーカップを指さした。

「先に飲みなよ。冷めるよ」

 アレンは頷いて、ソーサーごと手許に寄せ砂糖とミルクを加える。


「デヴィッド卿、聞いていただけますか? 僕の子どもの頃の夢の話です。本当に、たわいもないんですけれど」

「うん、うん、なに、なに?」


 とたんにデヴィッドは瞳を輝かせて身を乗りだした。アレンは嬉しそうに口許をほころばす。彼はいつもそうなのだ。ほんの些細なつまらない話でも、優しい笑顔で頷きながら、嫌な顔ひとつせず耳を傾けてくれる。


「朝、僕は草原のまん中で目を覚ますんです。草の香りと穏やかな風にくすぐられて。それから、どこまでも透きとおる青空に、おはようって言うんです」


 TSタブレットの画面を空中に立ちあげて、アレンはデヴィッドからも見えるように、二人の中間に画面位置をずらして固定する。


 狭い画面上に広がる世界は、実写(リアル)ではなく、童話の挿絵のような柔らかな色彩の優しい草原の風景だ。


「それから僕は世界中を旅するんです」


 ひょうきんな顔をした、ちっとも怖くないライオンのいるジャングルや、ドラゴンの家族の住む洞窟。極彩色の魚の泳ぐ海の底。兎の穴にも遊びにいって、いっしょにお茶をいただいて、日が暮れたら空を飛んで月世界旅行。


 次々と目まぐるしく変わっていく画面を、デヴィッドは魅入られたように見つめていた。ついにその画面がすうっとたち消えた時、彼は緊張を解いて深い吐息を漏らしていた。


「驚いた! これ、あんなちょっとの間に描いてたの?」

「まさか! さっきは、かなり以前に描いて保存していたものの中から、見ていただけそうなものを選んでいたんです。落書きみたいなものばかりで、恥ずかしいんですけど……」

「きみの描いた絵、まだこれ以外にもあるの? 全部見せて。描きかけのでもいいから、全部」

「え」

「これが、きみの暮らしたい部屋なんでしょ? だから僕にこれを見せたんだよね? ほら、早く!」


 いつもの彼とは思えないほどに真剣な、金色に輝く瞳で催促されて、アレンは慌てて膝の上のタブレットに指を弾ませる。デヴィッドのくるくると色を変えるヘーゼルの瞳が、幼い頃に自分が作りだした友達、優しいライオンのそれに重なる。


 小説というフィクションの中で、フレデリックの筆がアレンの心に言葉を与えて吐きださせてくれたように、今度こそ、自分自身で自分のことを表せるようになりたかった。


 デヴィッドなら、笑ったりしない。揶揄ったりしない。


 そう信じて、自分の描いた絵を見てもらった。


 夢を現実(リアル)にする飛鳥の創りだすTSの世界は、アレンにとって、吉野が手をひいて見せてくれた奇跡の世界だ。

 これまでのような、乞われ、言われるままにではなく、この世界に自ら足を踏みいれたいと、そんな願いが彼のなかに生まれていたのだ。





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