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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
629/805

  幕開け7

 翌日はクリスと大学の授業に出席して、アレンは夕刻になってから飛鳥と一緒にヘンリーの館に戻ることになった。


 朝方のアレンは「考えすぎではないですか?」と、不服そうに唇を尖らせてフラットをでて意気揚々と大学へ向かったのに、帰ってきた折にはすっかりぎこちなく顔色も青褪めていた。

 フレデリックの所属するカレッジ付近にはもうすでに雑誌記者やカメラマンらしい面々が複数いて、彼やその親しい友人を捉まえてインタビューしようと待ちかまえている、と同じエリオットのカレッジ寮出身の知人から、かなり厳しく注意を促されたらしい。彼らは今作の内容を知っているわけではない。だが、前作が発表された時の衝撃と周囲の過剰な反応が、いまだ生々しく記憶にこびりついているのだろう。

 彼らの忠告はダイレクトにアレンの恐怖心を揺さぶった。あの時は自分への風当たりよりも、多くは兄ヘンリーについてとり沙汰されていたために、アレンは自分に置き換えて考えることを怠っていたのだ。




 館に到着後、夕食を断りそのまま自室にひっ込んだアレンを吐息交じりに見送り、飛鳥は上着を羽織って居間を通りぬけ庭にでると、階上の中テラスに向かった。ガーデンパラソルの下に、熱心になにかしているデヴィッドの姿がみえたからだ。


 声をかけると、彼はちらとだけ飛鳥に目をやり、「おかえり、アスカちゃん」とすぐに視線をテーブルの上のノートパソコンに戻した。


 飛鳥はそんな彼の応対をとくに気にするでもなく傍らに腰をおろし、夕闇の迫りつつある辺りをなんとはなしに見回していた。アレンたちの入学式のために、わずか数日フラットにいただけなのに、紫陽花はすっかり秋色を深めて濃いピンクをその花弁の一部に薄っすら重ねた綺麗な緑に変わっている。

 日本の実家に植わっていた紫陽花は、毎年、梅雨時に鮮やかな花を咲かせていた。だがこの地の紫陽花は、冬の初めまで咲いている。

 飛鳥は紫陽花が落ちついた緑になることで、長い夏の終わりに気づく。慌てて大学の準備をする。いつの間にかそんな認識ができあがっていた。


 感慨深げに紫陽花を眺めていた飛鳥に、デヴィッドの淡々とした声が届く。


「花を見にきたの? 僕に用事じゃなくて」

「ん? 集中してるみたいだから、きみが一息つくのを待ってたんだよ。それ、例の新企画かな?」


 自分に問いかけながらも、頭の中ではあれこれ思索に耽っているらしい彼の真剣な表情に、飛鳥も向き直り、居住まいを正して問い返した。


「うん、やりたいことが多すぎてね、絞りきれないんだよ~!」

 デヴィッドはいきなり頓狂な声をあげ、大きく伸びをする。

「アレンも戻ってるよ。ちょっと落ちこんで自室に籠っているみたいだから、意見を聞いてあげてよ」


 アレンをアシスタントに、と言っていたヘンリーの言葉を思いだし、飛鳥は蜂蜜色の館を仰ぎみる。


「今は無理なんじゃない? 読み耽ってるだろうしね」

「なにを?」

「なにをって、フレッドの小説だよ。明日発売だろ? 一足先に彼から贈呈されたんだ。僕も仕事もそっちのけで読んじゃったよ。きみの分も、」とデヴィッドが言い終わらない内に、飛鳥は椅子から腰を浮かせていた。


「ほら、マーカスから小包が届いてるって聞いてない?」

「本だとは思わなくて。明日買いに行くつもりだったんだ!」


 いてもたってもいられない様子の飛鳥に、デヴィッドはひらひらと手を振った。


「また後でね~!」

「ごめん、デイヴ」


 駆け戻っていく彼を見送り、デヴィッドは物憂げに椅子にもたれた。薄暗い紺色の増してきている空に、溶けこますように静かに息をつく。だがすぐに半身を起こすとぶるっと身震いして立ちあがり、パソコンをたたんで小脇に抱える。


「いっている間に冬だよ。ぼやぼやしていられないよなぁ」


 煉瓦敷の中テラスから階段をくだっていく。傍らで秋色の紫陽花が冷気に震え揺れている。





 玄関先で伝えられた通り、飛鳥宛ての郵便物はまとめて自室のドアの前に置かれていた。飛鳥の室内はあまりに乱雑で、机や棚などに置かれると封を切る前に行方知れずになることがあった。そのため、間違いのないように飛鳥宛ての郵便物だけは直接手渡されるか自室の外側に届けられているのだ。

 数通の手紙と小包を拾いあげて、ドアを開ける。仄暗い室内をつきぬけてベッドサイドの電灯を点け、飛鳥はベッドに座って小包を開けた。中から現れたペーパーバックのきついインクの香るその本を捲ると、扉に直筆のメッセージが添えられていた。



 アスカさんへ


 この小説のモデルである僕の大切な友人、ヨシノ・トヅキの敬愛する兄であるあなたに、この本を贈呈します。


 フレデリック・キングスリー



「敬愛――、されているのかなぁ?」


 照れ臭そうに頬を緩めたまま、飛鳥は次の項へ、さらに次の項へと捲っていった。







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