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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
628/805

  幕開け6

 飛鳥とフレデリックが夕食を済ませて居間で寛いでいると、まず楽しそうな声が玄関先から聞こえ、次いで声の主が声音に負けない明るい笑顔を戸口から覗かせた。


「おかえり」

 二人、ほとんど同時に声をかける。アレンとクリスは、普段といたって変わりない様子で「ただいま」と、にこにこ笑いながらソファーに腰をおろす。


「僕は入学式の日のフォーマルディナーで酔っ払って、後から吉野にこってり絞られたのに、きみたち二人とも、飲まなかったの?」

「晩餐会のワインくらいは、」

「いいワインだったね。カレッジの晩餐会であんなちゃんとしたワインがでるなんて、食事よりそっちの方が驚いたね! でもその後は、こうして真っ直ぐに帰ってきましたよ、ね!」


 そのワインで酔っ払ったんだよ……。とはさすがに言えず、まったくアルコールが入っているようには見えないクリスが、同じように平然としているアレンに同意を求めて笑いかけるのを眺めて、飛鳥は気づかれないようにそっと吐息を漏らす。きっと彼らとは、アルコール耐性が根本的に違うのだ。ヘンリーの家の食卓でワインがだされないのは、自分を気遣ってのことかも知れない、とそんな懸念までが頭を過る。


 飛鳥がぼんやりと我が身を嘆いている間に、フレデリックは入学式やカレッジの様子を尋ねている。二人は瞳を輝かせて、代わる代わる厳粛な儀式の様子や、久しぶりに再会したエリオット校の顔見知りの話題を告げている。


 吉野から頻繁に話を聴いていた幼い頃の彼の印象が強いせいか、自分はアレンを過度に心配しすぎているのかもしれない、と飛鳥はふと我に返って、この仲のよい三人組を複雑な想いで眺めていた。


 アレンの世界は、決して吉野だけではないのではないか。むしろ、この輪の中に吉野がいないからこそ、飛鳥はバランスを欠いた埋められない穴を、アレンに投影してしまっているのかもしれない。

 何か一言喋るにしろ、吉野の顔色を窺っていたかつてのアレンはここにはいないのだ。誰と話していても視線は吉野を追っていた、臆病な怯えた子どもはもういない。

 吉野がいないくても、彼はちゃんと自分の足で立って、前を向いて進んでいるのだ。逆に、吉野に逢うと自分を見失ってしまうのかもしれない。吉野を目の前にすると、彼はジャッジを求めずにはいられなくなるのだろう。自分が吉野の意志に沿っているかどうか――。恐らく、彼の幼少期からずっと彼の祖父が求め続けていたという服従を、吉野に示さずにはいられないのだ。


 朝に玄関を後にした折の張りつめた空気は跡形もない。期待と興奮で頬を紅潮させて仲間との談笑の輪にいるアレンは、その際立った美貌をぬきにすれば、なんの変哲もない、これから迎える学生生活に胸を膨らませているいち学生なのだ。


 飛鳥の口許が力なく笑みを消していく。



「じゃあ、僕はこれで。仕事が残ってるんだ。もし、なにかあったら声をかけて。上にいるから」と飛鳥は無理ににっこりすると立ちあがった。


「後でお茶を淹れますね」

 アレンが縋るようにその背を追って言う。

「ありがとう」


 ドアが閉まるのを見届けてから、アレンはしくじった、とばかりに眉根をよせて息をつく。


「無神経だったかな。こんな、浮かれてしまって。本来ならヨシノがこの場にいてしかるべきなのに。アスカさんは、ずっと彼のことで気を揉んでおられるのに」

 自分自身を咎めて下唇を噛むアレンに、「それは言っても詮ないことだよ」と、フレデリックは頭を振る。


「そうだよ! それに、アスカさんは解っていらっしゃるもの!」

 クリスもアレンを宥めるようにその後を継いだ。

「ヨシノは、誰にも真似できない前任未踏の未来を紡ぎだしているんだ。だからこそ、アスカさんだって彼に好きなようにさせているんじゃないか。そりゃ、淋しいだろうなって思うよ。でも、」

「――でも?」


 言葉を切って、適切な言葉を探して視線を彷徨わせるクリスに、アレンは虚ろな瞳で続きを促す。


「やっぱり、ヨシノは僕たちと同じってわけにはいかないよ。エリオットの頃からずっとそうだっただろ? ヨシノは僕たちと一緒にいるときだって、ずっと一人だったじゃないか」


 クリスは過去に想いを馳せているのか、わずかに目を細め宙を睨んでいる。


「僕は、あの頃より今の方がずっと、ヨシノの中に僕たちがいるって信じられるよ。彼は、サウードの国だけじゃない、僕らが住む英国を含む世界の未来をよりよく変えるために立ち向かっているんだって、この夏、彼に逢った時に確信したんだ」

「解らないよ。きみはどうしてそんなふうに思ったの?」


 アレンが消え入りそうな声で呟いた。


「だって、彼のしている事を僕たちにも教えてくれたじゃないか。あんな重要機密を。ヨシノはいつだって、なんだって自分一人でやってたのに!」


 アレンが誘拐されたときも、クリスマスコンサートの妨害のときも、詳しいあらましは結局聞かず終いなのだ。おそらく知らない方がいい、そういう世界の問題だからだと、クリスは自分自身に言い聞かせて吉野に問いたい想いを呑みこんできた。


「でも今は、僕らにも知っておいてほしい、ってそういうことだよ!」


 冷たい白大理石で囲まれた空間で目にした、ぴりぴりとした吉野の背中と、振り返ったときの彼の笑顔。和らぐ空気。クリスは、初めていつも揺るがない自信に溢れた強い彼が、細い細い糸の上で必死でバランスを取りながら姿勢を保っていたのかもしれない、と想像したのだ。そして、そんな彼にとって、自分だって少しは意味のある存在だったのかもしれない、と――。


「いつだって、ヨシノは僕たちのために闘ってくれていた。今もそうだぞって、決して心が離れてしまっているんじゃないんだぞって、そういう意味なんだと思ったんだよ」



 誇らしげににっと笑ったクリスを、アレンもフレデリックも声を失って、びっくり眼で見つめていた。






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