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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
627/805

  幕開け5

 入学式当日を迎えて、スーツの上に黒のアカデミック・ローブを羽織り、照れくさそうに微笑むアレンとクリスの記念写真を撮りながら、飛鳥は目を細めてしみじみと感傷に浸っていた。昨日のことのように思いだせるこの日を、同じ玄関先で誇らしさと若干の心配とで送りだす側に自分がいるのだ。


 かつての飛鳥の入学式では、朝から忙しなく準備していたのが吉野だったように、アレンの支度をフレデリックが細やかにチェックしている。

 もう少しローブの丈を詰めればよかった、と裾を気にするアレンに、フレデリックは、そのくらいが標準だからと首を振って宥めている。


「きみも同じカレッジだったらよかったのに」

 不満そうにアレンが小首を傾けている。

「クリスが一緒じゃないか、大丈夫だよ」

 フレデリックは、彼の不安を少しでも払拭しようと晴れやかに微笑んでみせる。

「そうだよ! 僕がついているからね、心配いらないって!」

 頼もしいクリスの言葉に励まされ、アレンもまずは「ありがとう」と微笑み返し、継いで飛鳥とフレデリックに目線を移す。


「それじゃあ」

「いってらっしゃい」


 軽く手を振る二人を見送ると、飛鳥とフレデリックは互いに顔を見合わせた。足早に歩いて行く二人から少し距離をおいた位置には、顔馴染のアレンのボディーガードが周囲に気を配りながらつき添っている。



「吉野なんて、入学式にすら出なかったもんなぁ」

 玄関をくぐりながら、飛鳥は深くため息をつく。

「もう政情は落ち着いているし、以前よりは自由がきくようになったって、彼、言っていました。そろそろ戻ってくるんじゃないでしょうか?」

 フレデリックは期待をこめて飛鳥を見やった。

「それがね、あいつ、今、米国にいるんだ。ロニーがどこだかの石油関連の会社のパーティーで遇ったって知らせてくれた」


 飛鳥は居間のソファーにどさりと身体を投げだすと、くたびれた様子で目を瞑る。


「ロニーって、どなたですか?」

「ああ、ロレンツォだよ。ロレンツォ・ルベリーニ。ウイスタンからの友人なんだ」


 フレデリックは初め、飛鳥の言うロレンツォ・ルベリーニが、自分の知っている同名の人物だとは繋がらなくて、怪訝な顔で記憶を漁っていた。ルベリーニ公爵を、その肩書きではなく、ただの学友だと説明する人がいるなんて思いもよらなかったのだ。

 驚きのあまり絶句している、そんな彼の様子には気がつかず、飛鳥は戻ってこない弟について愚痴を零していた。


「吉野の奴、カリフォルニアでバカンスだって。ロニーは仕事で行っているっていうのに。ふざけてるだろ?」


 カリフォルニア――。石油関連とくればアレンの実家が思い浮かぶ。だが、アレンの祖父とソールスベリー家、そして吉野は決して良好な関係ではなかったはずだ。フレデリックはいつだかにアレンから聞いた、彼の祖父が吉野の命を狙っているという信じられない話を思いだしていた。


 まさか、いくら吉野でも敵対している相手の陣地に飛びこんでいるはずがない。まして米国にはアブド大臣もいるのだ。サウードの国にいる以上に危険ではないか……。きっと、ルベリーニの庇護下でのバカンスなのだ、と手前勝手に結論づけて、フレデリックはそれでも燻る懸念を振り払うように話題を変えた。



「アスカさん、僕のカレッジの入学式は明後日なのですが、」

 その改まった声音に、飛鳥は気怠げにもたれていたソファーから身を起こしてフレデリックに向き合った。

「うん、」

「僕の小説の新刊もその日発売になるんです」

「また、前回のように騒ぎになるかも知れない?」


 苦笑を浮かべて尋ねた飛鳥に、フレデリックは申しわけなさそうな笑みを浮かべて頷いた。


「すみません。だから、飛鳥さんはアレンと一緒にあちらのお宅の方へいらして下さいませんか?」

「アレンも? 大学が始まったばかりなのに。新歓イベントは――」


 言いかけて、飛鳥は苦笑いして目を伏せた。自分の時だって吉野が神経を尖らせて文句ばかり言っていたのだ。なんであれ理由をつけて、彼をあの饗宴から遠ざけることができるのならそれに越したことはない。本の出版はそのための方便にすぎないのではないか、と思い至ったのだ。


「すみません。しばらくご迷惑をおかけします。今回発売される下巻は、ヨシノをモデルにした小説なんです。アレンや、クリスも登場する」


 口籠るフレデリックの生真面目な表情に、飛鳥は気持ちをひき締めて問い直した。


「それは、彼を新歓イベントには参加させない方がいい、ってだけではなくてアレンを守るため? 彼はその内容は、」

「知っています。彼には草稿の段階から目を通してもらっています」

「彼を傷つけるような内容じゃ、ないんだね」


 そんなものを、この青年が書くはずがない、と解ってはいたものの、飛鳥は念を押して尋ねていた。

 飛鳥の知る限り、フレデリックは誠実で真面目な心優しい人格者だ。前作にしても、不条理な犯罪への怒りと人間の尊厳を問いかける、正義感に溢れた真摯で真っ直ぐな作品だった。

 だが、向かいあって座る物静かな彼の佇まいの中に、なにかしらの怯えと、消化しきれていない不安を感じとって、飛鳥はたたみかけるように尋ねずにはいられなかったのだ。


「アレンと吉野のことが書いてあるの?」


 俯き加減の面を恐々(こわごわ)と飛鳥に向けたフレデリックの瞳が、その答えだった。


「アレンの、彼の意志でもあるんだね。自分では語りえない言葉をきみに託したんだね」


 飛鳥は再びソファーに倒れこむようにもたれた。そして、くすくすと小刻みに身体を震わせて笑いだす。


「まったく――。変なところでさ、あの二人って兄弟だね。ヘンリーは自虐的なほど自分を追いこむタイプだけど、アレンもだなんて!」


 唖然と自分を見つめるフレデリックに、飛鳥は一頻(ひとしき)り笑ったあと身を乗りだして、瞳を輝かせてつけ加える。



「あいつ、吉野にはいい薬だよ。自分にどれほど真剣な想いがよせられているか思い知ればいいんだ。アレンのことは心配いらない。ヘンリーが変な騒動にならないように対処してくれると思う」



 まるで悪戯でも思いついたような、どこか意地悪な色を湛える飛鳥の鳶色の瞳に、まるで似てはいないのに、吉野がにっと笑ったときの、あの瞳が重なる。

 フレデリックは、困ったような、どう返していいものか困惑しているような曖昧な表情で飛鳥を見つめて、細くちぎれる吐息を漏らした。






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