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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第十章
623/805

幕開け

 ケンブリッジのソールスベリー邸が茜色に染まる頃。爽やかな風にのってテラス広場まで流れてくるピアノの旋律に耳を傾けながら、飛鳥はヘンリーと向かいあってお茶を飲んでいた。だが飛鳥は手許のティーカップよりも開け放たれた二階の窓が気になるようで、室内の様子が窺えるはずもないのに眉をひそめている。


 ふいに、ピアノの音が止んだ。


「アレンのところへ行ってくる」

 立ちあがる飛鳥を、若干不服そうな声音でヘンリーは引き留める。

「きみは、あの子を甘やかしすぎじゃないのかい?」


 中東の砂漠の地、マシュリク国から戻ったアレンは、すっかり塞ぎこんでいる。こうして一日中ピアノの前から動かない。その理由の一つが、飛鳥の弟吉野のせいであるは想像に難くない。ヘンリーにしてみれば、それはアレン個人の問題であって、彼が自分でのり越えなければならない問題なのに、飛鳥はどういうわけか、吉野が関わる問題は飛鳥自身にも責任があるかのように背負いたがる。そうすることで、飛鳥はアレンに同情しているようにみせながら、吉野がアレンに煩わされることを肩代わりしている、とヘンリーには見えなくもない。

 どれほど物理的な距離が開こうと、心理的な距離は互いの息遣いが聞こえる位置から動こうとしないこの兄弟に、ヘンリーは、いまだにもどかしさと苛立ちを覚えずにはいられないのだ。


「でも、この時間帯は傍にいてあげないと――。夕暮れ時は、なにもない時だって感傷的になってしまうものだろ? 今のあの子の落ちこみっぷりはみていられないよ。きみはなんでもビジネスライクだから、あまりこんなふうには感じないのかもしれないけど」


 気が急いているのか、早口で言い捨てて飛鳥は館へ駆けている。まるで感受性の鈍い朴念仁のように言われ、さらにはアレンへの冷淡さをも咎められた気がして、ヘンリーは引き止める気も失せて、皮肉な笑みを浮かべてその背中を見送った。


 アレンにしても、飛鳥にしても、吉野が中東で行っていることや、その意図を本当に理解しているとは、ヘンリーには思えなかった。けれど真実は、おいそれと口にするわけにはいかないのだ。焦燥感に歯噛みしながら、今日もヘンリーは嘆息する。

 自らも茜色に溶ける黄昏の下、ガーデンテーブルに頬杖をついて呟く。


「僕だって、この夕焼けに物悲しさを感じるくらいの情緒は解するつもりなんだけどね――」






 控えめなノックの音に、「どうぞ」と静かな声が返る。静かにドアノブを捻り足を踏みいれた室内は乱雑に散らかっている。声の主は、小首を傾げて部屋の真ん中につっ立っていた。


「なにしているんだい?」


 飛鳥は不安気に眉根を寄せた。家出でもするんじゃないか、と疑ってでもいるようなその緊迫した表情に、アレンは一瞬きょとんとして、すぐににっこりと花のような笑顔を見せた。


「そろそろフラットへ移ろうかな、って。フレッドたちも9月に入ったら早めに引っ越してくるそうなので。散らかっていてすみません」

「あ、そうか、そうだよね。もうそんな時期なんだね」


 いつも大学が始まるぎりぎりまでスイスの研究所やマーシュコートで仕事に追われていた自分とは、学生の本分というのか、心構えが違うのだ、と飛鳥は慌てて言を濁した。


「邪魔してごめん。よかったら一緒にお茶でもと思ってさ」


 手にしたトレイに載ったティーセットを、どうしようかと困ったように持ちあげてみせる。アレンは嬉しそうに微笑んで、「いただきます」とトレイを受け取りベッドの端に置いた。そして窓辺から椅子を運び、飛鳥に座るようにと勧めると、自分はベッドに腰かけた。


「フラット、アスカさんのお部屋が、夕陽が一番綺麗に見えるそうですね」

「あ、うん。そうだね、僕のいた部屋を使うの?」

「たぶん、フレッドが。僕はいただいている部屋に慣れているので。防音で気兼ねなくピアノも弾けるし――」


 いつもと変わらない調子で話すアレンに、飛鳥はほっとしながら紅茶を淹れた。だが差し出されたティーカップに、ぼんやりと赤く染まる窓の外を眺めているアレンは気づかない。

 カチャリ、と飛鳥がカップをトレイに戻した音に、彼ははっと視線を向けた。言い訳するようにちょっと首を傾けて、なんともいえない優しげな微笑みを浮かべる。


「アスカさん、風のない日に砂漠に沈む夕陽は、アスカさんが創られた映像でもおいつかないほど美しいですよ」

「僕も見てみたいよ」

「でも、アスカさんはあそこへは行かない。僕はあの場所に立ってやっとその理由が解りました」

「吉野が、僕は気温に耐えられなくてぶっ倒れるからくるなって言うからだよ」


 顔をしかめた飛鳥の返答にアレンは少しだけ笑い、伸びた前髪を振り払うよう軽く頭を振る。


「夕陽に染まる砂漠の色は、血が染みこんだみたいに赤いんです。僕はあの地に立つヨシノから、目を逸らさずにはいられなかった」


 視線を膝の上に握られた拳に落として、アレンは無理に口角を引きあげている。


「どうして、僕は、いつまでたってもこんな、弱虫なんだろう……」

「そんなこと、」

「アスカさん、この赤が夜の帳に移ろいかきけされていくように、移ろうはずの心も、いつか夜の闇の中に静まることができるのでしょうか?」


 金の睫毛に縁られた、一日の終わりを告げる夕焼け空とは逆の光を湛える朝焼けの空の瞳で、アレンは行き場のない感情を飛鳥にぶつけていた。






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