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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第二章
62/805

  寮室内の蛍5

 あれ? 今日はやたら同じ雑誌を持っている人が多いなぁ……。それに、いつもにも増して視線が痛い、と飛鳥は首を捻りながら校内を歩いていた。彼は赤い表紙の雑誌と突き刺さる視線の因果関係に、どうも想像が及ばないようだ。


 半日が過ぎようとする頃になって立ちよった売店で、うず高く積み上げられていた赤い表紙の「マスマティカル・サイエンス」を手にした時、飛鳥もようやくこの現象を解明できたようだ。


 ヘンリーの論文――。 


 飛鳥は買うべきか、どうしようかと真剣に迷っている。


 10ポンド、高いなぁ。買えない値段じゃないけど……。図書室においてあるかもしれない……。


 ともかく中身を読んでからだ、とため息をつき、丁寧に雑誌を戻した飛鳥は早足でまずは図書室に向かった。





「それ、わざわざ買ったの? 読むならあげたのに」

 部屋に戻ってきたヘンリーが、雑誌を読みふけっていた飛鳥に声をかけた。


「これ、共同論文ってあるけれど、“シューニヤ”が書いたの?」


 紙面に目を走らせるのに夢中で、タブーとしていた名前が何気なく飛鳥の口から零れでていた。時間差で気づき、慌ててはっと顔を跳ね上げた。



「やっぱり、きみには判るんだね」

 ヘンリーは悪戯が見つかった子どもみたいに笑っていた。

「判るっていうか……。“シューニヤ”っぽくて。普通は、まず、いくつかの条件があって、その下で成り立つ条件の積み重ねで結論に行きつく。でも“シューニヤ”は、初めに結論を知っていて、それが内包する条件を後から指示していく、としか思えない飛躍をするんだ。最後まで読んで、初めて何から始まったかが判る」

「確かにそんなところがあるよ。初めから全てを知っているようなね。通常の論文に見えるように頑張って書いたのにな」


 ヘンリーはベッドに腰を下ろし、ごろりと寝ころがった。飛鳥は驚いて目を瞬かせ、そんな彼を見つめる。


「書いたのは僕だよ。定理を見つけたのは彼女だけどね」

 話しながら腕を組み、顔を隠すように目の上にのせる。

「やっぱり駄目だな。簡単に見つかってしまう。コズモスもそうだって、気づいているんだろう?」

 ヘンリーは腕を外し、飛鳥に顔を向けた。

「きみは簡単にサラを見つけてしまうんだね。サラがきみを見つけたように」

「サラ……」


 それが、“シューニヤ”の本当の名前――。


「サラに会いたい?」


 ヘンリーは、寝返りを打って横向きになった。さらりと黄金色の髪が流れる。そして感情を映さない、それなのになぜか艶っぽい瞳で飛鳥をじっと見つめていた。飛鳥はどぎまぎしながら、真面目な顔で頷く。


「駄目だよ。誰にも会わさない。彼女はプロメテウスの火だ。でも僕には塩のように大切な人なんだ」


 それだけ言うと、ヘンリーは、「疲れた、寝る」と、そのまま目を閉じてしまった。




 飛鳥は狐につままれた面持ちで、あっという間に眠りに落ちたヘンリーをしげしげと眺めていた。


 この人も大概判らないよ。

 いつも几帳面で潔癖なほどなのに、今はローブも脱がずに着の身着のまま眠っている。ていうよりも、ヘンリーの寝顔を見るのって、初めてなんじゃないのか? こんな夕食前から寝ているのも……。

 眠っていると、本当に大天使みたいだ。起きていると恐いのに。

 あ、でも、友達といる時のヘンリーは別人みたいに優しそうだった。


 つらつらと脈絡なく脳内を飛び交う思考に軽く首を振り、「塩のように大切って、どういう意味なんだろう?」と飛鳥は呟いた。



 プロメテウスの火は、化学技術のことだと思う。でも、塩って?


 ――ヘンリーの宝物さ。


 ふと、飛鳥は去年のエリオットでのサマースクールで初めて英国を訪れた時に出逢った、アーネストとの会話を思いだしていた。


 “シューニヤ”は、お姫さまで、宝物で、塩のように大切な人――。



 アーネストも、彼女を知っているんだ。訊ねたら教えてくれるかもしれない。けれど、他の人に聞いてはいけないような気がした。ヘンリーの大切な人のことを簡単に口にしてはいけない。なぜだかそう確信できた。



 だから飛鳥は、眠れる大天使の謎かけに、ただ苦笑するしかなかったのだ。






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