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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
619/805

  夢6

 白柱の並び立つ回廊に囲まれた中庭は、中央の噴水から豊かに溢れでる水溝(カナール)が、鮮やかな緑に輝く芝生を二分している。

 その静かなせせらぎのほとりに佇んでいる凛とした背中を、フレデリックがいくばくか離れた緑の生い茂る木陰から眺めていた。自分の気配に気づくかと待っているのだが、サウードは思索にでも耽っているのか、足下の水流を眺めたまま顔をあげることすらしない。


 今日はこれから市街地観光に出かける予定なのだ。その時間が迫っている。フレデリックは彼の穏やかな時間を邪魔するのを申し訳なく思いながら声をかけた。振り返った面が、すぐに鷹揚な笑みを浮かべる。


「そろそろ時間なのかな? 楽しんできて。案内できなくて申し訳ないけれど、僕がいると、君たちが楽しめないと思うから――」


 サウードは微笑みながら肩をすくめている。フレデリックは了解している、と笑みを浮かべて首を振った。


「残念だけどしかたないよ」


 サウードは自分たちとは違うのだ。


 階級の歴然とした英国で育ったフレデリックでさえ、この国ほどに身分差を意識させられたことはない。エリオット校という箱庭が、いかに特殊で不可思議な空間であったのか、ここにきて思い知らされた。


「サウード殿下のご学友に手をだしたら不敬罪――」と、フレデリックは笑いながらそんな思い出を口にした。

「ヨシノのばら撒いたあの冗談話が、ここでは冗談ではないんだって解って、笑えなくなったよ」


 サウードも懐かしそうに微笑する。


「そんなこともあったね。――あの頃、ヨシノにこんなことを言われたよ。『お前の常識が俺の非常識だってこともある』って。きみも、僕の国ではそんなふうに感じることが、多々あるのだろうね」


 言いながら何ともいえない皮肉な笑みを浮かべたサウードに、フレデリックは軽く息をつき、くすくすと肩を震わせた。


「それはお互いさまさ。ヨシノだって英国に来たばかりの頃は、散々、僕の国の悪口を言い捲っていたんだからね。そのうえ、エリオットの常識には一切従わなかった。僕自身に関して言えば、彼よりもずっと異文化に対して寛容だと思うよ」


 サウードを見つめるフレデリックの瞳は、穏やかで優しい。それまで吉野やアレンの親しい友人という以上の認識をもたなかった彼を、サウードは、今、初めて出会った相手を見るような驚きをもって見つめていた。そんな彼に、フレデリックは柔らかな微笑を湛えたまま小首を傾げてみせる。


「サウード、ヨシノが英国に戻ることをきみが望んでいるって、アレンから聞いたよ。理由を教えて欲しいんだ。なにか悩んでいるのなら、僕なんかではきみには役不足かもしれないけれど、力になりたい」

「アレンの? それともヨシノの?」

「ヨシノやアレンが、心を尽くして支えたいと思っている、きみのだよ」


 眉を寄せ、唇を引き結んだサウードの足下を流れる水音が、二人を包む沈黙の中でやけに大きく耳に響いた。フレデリックはその静寂が重さと意味をもちはじめる前に、水溝の脇にしゃがんで緩やかな流れに手のひらを浸した。


「水の匂いがするね。英国では意識したことはなかったのに」

「フレッド、」


 サウードもまた、フレデリックの傍らに腰をおろした。流れる水を堰き止めるように弄ぶ彼を、目を細めて眺める。


「僕はエリオットにいた頃、ヨシノはしなやかで強くて、自由な野生動物なのだと思っていた」

「解るよ。きっと誰もがそう思っていたと思う」

 フレデリックは軽く相槌を打ってみせる。

「でも、僕の国にいる彼は、この水のようだ」


 水流に身を屈めて、サウードは両手のひらで清らかな流れを掬いあげる。そして、手の中の水を傾ける。さらさらと流れ落ち、もとの流れに戻る飛沫があがる。


「黄金よりも貴重な命の糧。彼は、僕たちにとってそんな存在だ。けれどこの国では、こんなにも乾ききった僕の国では、この清らかで美しく、涼やかな流れは涸れてしまう。そんな恐怖に、僕はいつも(さいな)まれているんだよ」


 真っ直ぐに向けられた漆黒の瞳は、夜の闇に怯えているかのように震えている。


「ヨシノは――」


 フレデリックは言いかけて、言葉が続かず面を伏せた。サウードと同様に、眼下の流れに視線を落とす。


 サウードの言いたいことが解る気がしたのだ。だがフレデリックからみた吉野は、英国に在っても決してかの地に安住していたとは思えない。常に、あの曇天に圧し潰されてでもいるような息苦しさを彼から感じていた。だから彼はこの国を選んだのだと思っていたのだ。


 曇ることのない、こんな青空の下を――。


「サウード、確かに彼はこの水のように柔らかく、僕たちの心を潤わせてくれる人だ。だけど、彼には誰よりも強い意志がある。流れ着く先は、彼自身が決める、と僕は思うよ」


 言いきったフレデリック自身、確証などなかったのだが。


 サウードやアレンの言うように、吉野はこの国で疲弊してしまっているのだろうか。それでもなお、彼はここで成すべきことがあるのだろうか――。


 フレデリックが彼の思惑を見極めるためには、まだ何かが足りなかった。





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