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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
612/805

  故郷7

 ヘンリーが出勤したのを見計らって、今度はアレンがコンサバトリーを訪れた。オフホワイトのラグの上に、飛鳥は目を瞑ってごろりと横になっている。


「アスカさん、起きていますか?」

 アレンは飛鳥の横に、ぺたんと腰を落として訊いた。

「起きてるよ」

 目を閉じたままの飛鳥から小声の返事が返ってきた。

「仕上がり、見てもいいですか?」

「いいよ」

 飛鳥は寝転んだまま、片手でノートパソコンのキーを押す。



 天井の一点から溶けだす紺色の空。そして、みるみる内に広がる赤い砂漠に、自分を包む空気の温度までが数度上がったような錯覚を覚える。遠く地平線には、今まさに朝陽が顔をだしているところなのだ。


「兄が、こんな映像にばかりどっぷりと浸かっていて、アスカさんの体内時計はおかしくならないのかと心配していました」

「しょせん映像だからね――」


 飛鳥は薄く目を開けて、ゆっくりと白んでいく頭上の空をぼんやりと眺める。


「あいつの考えていることが判らないんだ」

 唐突に飛鳥は呟く。

「あいつにとっての、英国と米国のメリットの違いって何なんだろう?」


 飛鳥は虚ろに宙を見つめていたその面を、やっと、ため息混じりにアレンに向けた。朝焼けに照らされてきらきらと輝く金髪を無造作にかきあげていた彼に、尋ねる、というでもなく尋ねる。


「サウードの政策の話ですね?」

 アレンはにっこりすると、小鹿のように可愛らしく小首を傾げてこともなげに尋ね返した。飛鳥は飛び跳ねるように半身を起こして、こくこくと頷く。


「きっかけは、エリオットの授業だったかなぁ、政治経済の。グループに分かれてランダムに与えられた条件の許で、その長所、短所を考慮した架空の国の政策を考えるっていう課題があったんです」

「うん、それで」


 生き生きと瞳を輝かせて語るアレンに、飛鳥は、あれ? と話の方向がずれているのでは、と思いながらも頷いて続きを促した。


「サウードは強国に囲まれた資源国って設定で、初めは強国の中でも一番強い国と結びついて軍備を増強して近隣の他の列強国に備える、って政策を主張したんです」

「資源が狙われて紛争が絶えないって設定でもあるんだね」

 飛鳥は頷きながら、真剣にアレンを見つめて言った。

「だけどヨシノは、大規模な自由貿易地域(フリーゾーン)をまず造設するって言ったんです。そして、世界中の大企業、金融機関、巨大資本を呼びこむって」


 自由貿易地域――。


「それって、」

「現状のサウードの国です。サウードの叔父、現国王の兄にあたる前国王の政策です」

「吉野は知っていたのかな?」


 呟いた飛鳥に、アレンは真剣な視線で頷き返した。


「でも、現国王に政権が交代してから、近隣諸国との紛争やテロの脅威から政策は軍部拡張路線に変化していた、丁度そんな時だったんです」

「殿下にとっては、まさにタイムリーな課題だったんだね」


 納得して頷いた飛鳥に、アレンは懐かしそうにちょっと微笑んでみせた。


「ヨシノは、国の中心に世界各国の利益を集中させることができれば、有事の際に強い軍隊を持たなくたって、世界の列強国が黙っていないって主張したんです」

「自国の利益を侵害されることになるから――」

「だから、特定の国との軍事的な結びつきを強化させるのは、却って周辺諸国を刺激して良くないって」

「それが、今のサウード殿下の政策の根幹になっているんだね」


 飛鳥は大きくため息をついて、姿勢を変えて胡坐をかいた。少し前屈みになって膝に頬杖をつく。


 太陽はすっかり高く昇り、周囲には見渡す限りの青空が広がっている。黙ってしまうと唐突に、永遠の静寂(しじま)に放りこまれたかのようだ。アレンは居た堪れなくなって、慌てて言葉を継いでこの静寂を破る。


「それで、アスカさんの質問の、米国と英国のヨシノにとってのメリットの違いは、」

「うん」


 飛鳥の真剣な眼差しに戸惑いながら、アレンはいったん言葉を切って、何ともいえない微妙な笑みを浮かべた。


「その頃のアブド大臣は、米国との関係を強化するために軍備の増強を拡大していたんだそうです。ヨシノは米国との関係を弱め、まず自国に産業を根づかせて並行してインフラの整備、そして英国・欧州からの労働資本の移動を主張していました。――あくまで、僕の知っているのは、彼がサウードの国に行く以前の、授業の課題ディスカッションでしかないんですけど……」


 零れ落ちそうに大きく見開かれた飛鳥の驚愕の表情に、アレンは顔を蒼くして消えいりそうに語尾を濁して話し終える。


「あいつ、何てことを考えるんだ……」


 肩を震わせ、目に涙を浮かべて笑いだした飛鳥に、今度はアレンの方が驚いて目を瞠る。


「――あいつは欧州に移り住んだイスラム系移民の還る国を造りたかったのか。彼らを養うための産業を創出したかっただなんて……。砂漠に畑を造ったのは、彼らの口を養うためだったんだ。労働資本の移動ってそういう意味だよ」


 大地に根を張り、誰にはばかることなく受け継いできた伝統と信念に沿って誇り高く、堂々と生きることができる場所。魂の還る故郷――。


 きっと、そんな国を……。


 膝を立ててその間に顔を埋めて、おそらく泣きだした――、飛鳥にどんな言葉をかけていいのか判らず、アレンはおろおろとその場を見回した。すでに頭上高く昇っている映像の太陽を見上げて、目を眇める。


 やがて彼は、やっと小さく吐息を漏らすと、「マーカスさん、お茶を用意して頂けませんか、二人分」と、壁のインターホンを押して告げた。






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