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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
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  故郷6

 ようやく飛鳥が自室をでて、今作っている映像の最終仕上げにはいったのだ、と朝食の席でアレンが嬉しそうに話していた。


 食堂には顔を見せずにここに直行しているという事実に苛立ちながら、ヘンリーは朝食のトレーを片手に、コンサバトリーのドアを軽くノックする。


 はてしなく広がる砂の海。

 その全面を(くれない)に染めて夕陽が今まさに沈もうとしている。体内時計が狂ってしまいそうな風景だな、とヘンリーは思わず苦笑する。自身もその紅に溶けこんでしまいそうに砂上に座りこんでいる飛鳥は、ノックの音など耳に入らなかったのか、振り向きもしない。


「アスカ」

「ちょっと待って」


 動かない彼の横にトレーを置いて座り、ヘンリーは彼の横顔を凝視する。飛鳥は床に置かれたノートパソコンを操作しているのではなかった。その瞳は一点を凝視しているようでいて、どこをも見てはいないようにも見える。


「ヘンリー、どうすれば風を感じられるんだろう?」

「外に出ればいいんじゃないのかい?」


 ティーカップに丁寧に紅茶を注ぎいれてから、ヘンリーは飛鳥の前にトレイを置いた。彼は黙ったままカップを持ちあげ、こくりと飲み下してから、やっと気がついたように、くるりと首を回してヘンリーに面を向けた。


「ありがとう」

「何が?」

「朝食を持ってきてくれて」

「どういたしまして」


 ふわりと微笑んだヘンリーに、飛鳥もやっと緊張を解いた笑顔をみせる。


「だけど、夕陽を眺めながらの朝食というのは変な気分だよ」

「綺麗だろ」


 赤く染まる砂丘の傾斜に、さらさらといく筋もの風紋が刻まれていく。


「風――」

一時(いっとき)として留まることがないのに、永遠に変わらない風景でもあるこんな世界をずっと見つめ続けて生きていくのって、どんな気分なんだろう? そんな中ではどんな思想が育つんだろう? て考えだすとさ、行き着くのはね、」


 飛鳥は何ともいえない困ったような、戸惑っているような吐息を漏らした。


神の御心のままに(インシャラー)、なのかなって」

「そうかもしれないね」

「そんな過酷な土地だった?」


 淡々と答えるヘンリーに、飛鳥は不安そうに眉根を寄せる。


「朝食が冷たくなってしまうよ」


 ヘンリーはトレイからフォークを取り、皿の上に置いてから、その皿ごと持ちあげて飛鳥に差しだした。飛鳥は苦笑して受け取り、フォークを手にスクランブルエッグを口に運ぶ。


 まずは食べないと、話してくれない――。


 長年のつき合いで、彼の回りくどい表現方法にも、もう慣れた。彼が応えてくれるようにと、飛鳥はせっせと咀嚼し飲みくだす。


 まだだ……。


 ヘンリーはのんびりと(くつろ)いだ様子で、すでに半分以上砂漠にその顔を隠している紅い太陽を眺めている。飛鳥の質問など忘れてしまったかのように。薄っすらと笑みまで湛えて。

 飛鳥はそんな彼の横顔をちらちらと眺めながら、トーストに手を伸ばす。全部食べ終わるまで、彼は知らぬふりを通すつもりなのだ、と急いで口に押しこんでいる。


 ヘンリーはくすくすと笑って、「そんなに焦って食べたら、喉に詰めてしまうよ」と、なくなりかけているティーカップに紅茶を継ぎたす。


「ヨシノのいるかの国はね、過酷な土地というのとは、少し違うかもしれない」


 栗鼠(りす)のように頬を膨らませている飛鳥に柔らかな微笑を向け、ヘンリーは記憶を探り紡ぎはじめた。


「気候は確かに厳しいけれど、王宮のある首都は摩天楼の立ち並ぶ近代都市だよ。室内は冷暖房完備だし、高速道路は車で溢れている。決してきみが想像するように、国民は駱駝にゆられて移動し、羊を遊牧して生計を立てているわけじゃない」

「それくらい解っているよ!」


 やっと頬の中身を空にした飛鳥は、まだ何かが詰まっているかのようにぷっと膨れっ面をする。ヘンリーは笑顔を崩さないまま言葉を継いだ。


「だけど、その首都から一歩外に足を向ければ、こんな砂漠が広がっているんだ」


 視線を紅と紺青の交じりあう地平線から、星の瞬きはじめている天井へと頭を反らせ、ヘンリーは両手を背後について背中をぐっと反らせる。


「高層ビルの並び立つ首都は、100%外国資本の経済特区でもあるんだ。法人税、輸出入の関税の免除等、進出企業には多大なメリットのある自由貿易地域(フリーゾーン)だよ。世界中から企業が集まっている」

「うちのような?」


 やっと皿のすべてを空にした飛鳥が口を挟む。ヘンリーは上体を戻して飛鳥に向きあうと軽く頷いた。


「そうだよ。そしてアブド大臣とヨシノは、外国資本を誘致し、彼らが引き連れてきた外国人労働者の国内消費で国の体裁を整えているにすぎない現状から自立するために、石油に依存しない経済基盤を創出したいのだと、僕は思っていた」

「違ったの?」


 淡々と語るヘンリーに、飛鳥は不安を燻らせながら小声で尋ねる。


「アブド大臣は、ヨシノの考えた新たな産業を自らの一族を潤わせるために独占しようとしたんだ。そして彼は、成果が見え始めたとたんに喰いついてきた外国企業との癒着を切り捨てるためにも、あの発電施設を爆撃したんだ。あのままでは、独占できるはずの利益を海外に根こそぎ奪われかねなかったからね」


 その辺りは理解できる、と飛鳥は神妙な顔で頷く。


「ここまでは僕も読めていたんだ。でも、ここからが解らない。殿下とヨシノは、あの殿下のSNSでの演説通り、政治体制のさらなる民主化を英国の指導の下に推し進めている。でもこれではアブド大臣の親米派路線から、親英派へ鞍替えしたにすぎないだろ?」


 ヘンリーはかすかに眉をひそめて小首を傾げている。


「親米派から親英派に変わる意味――」


 飛鳥も口内で小さく繰り返した。


「ルベリーニを引きこむ意味も、僕はまだ掴み切れていない」


 申しわけなさそうにヘンリーはつけ加えた。



 これまで、ヘンリーは飛鳥とこのような話をしてきたことがあっただろうか。政治・軍事に関わる問題を嫌悪する飛鳥に対して真っ向からこの話題をつきつけることを避け、誤魔化し続けてきたのではないか。吉野の置かれている現状が見えないまま、飛鳥は頭上に星明かりさえ見いだせない中で、手探りでこの闇を彷徨っていたのに違いないのに――。


 パノラマに広がる満天の星空の下だというのに、横に座る飛鳥の様子はくっきりと見ることができていた。思い詰めたような、思索に耽っているような厳しい表情は、彼が何かを制作している時に見られていたものと同じだ。


 飛鳥が自分を拒んできたのではない。

 自分の方こそ、彼に向き合ってこなかったのだ、とヘンリーは今さらながらに思いいたる。


 まるで小さな子どもを扱うように、綺麗な言葉を並べて御伽噺の幻影を差しだして――。



 深くため息をついて、ヘンリーは飛鳥の視線の先を追った。無限に広がる星空のその先を。


 今は黙って寄り添うことしか、思いつかないにしろ――。







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