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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第二章
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  寮室内の蛍4

 「ヘンリーおめでとう! 『マスマティカル・サイエンス』を読んだよ!」


 金曜日の朝は、この話題一色だった。木曜日に発売される、数学界で最も権威あるこの雑誌に、ヘンリー・ソールスベリーの論文が掲載されたからだ。それだけでも名誉なことなのに、この分野での第一人者、ケンブリッジ大学のハワード教授のお墨付きまでついている。論文の内容などさっぱり判らない連中も、口々にヘンリーを誉めそやす。

 当のヘンリーは、群がってくる彼らに礼を言い、愛敬を振りまきながらかわしている。そのうち、ヘンリーの取り巻きの元エリオティアンが揃い、がっちりと壁を作っていた。


「これが、先輩が音楽スカラーにならなかった“大人の事情”なんですね?」

 エドガー・ウイズリーが、嬉しいのか残念なのか判らないような複雑な表情で、吐息交じりに尋ねた。

「まあね。そういうことさ」

 ヘンリーは曖昧な笑みを浮かべて答えている。



 エリオットとウイスタンはライバル校である、といいながらもその実、上層部の間柄は通じ合っている。

 いとも簡単にこれだけのエリオット生が編入できたのも、試験の成績よりも上層部間の取引の結果だった。どちらの学校にも顔の効くエドワードの家が上手く立ち回り、エリオットは優秀な生徒を失う替わりに、来年度の新入生で成績優秀者をウイスタンから譲り受けることになるはずだ。エリオットは人気では第一位でも、偏差値では十位に入ることさえ滅多にない。そんな学力面での見劣りを払拭するためだ。エリオットとウイスタンを併願する成績上位の生徒をウイスタンが落とせば、そのままエリオットへの入学が決まるという仕組みなのだ。

 そのような理由でそれなりの見返りを受け、ウイスタンの広告塔として編入したヘンリーは、せいぜいその役目を果たさねばならなかった。




「アスカ!」

 礼拝堂から各学舎へ分かれる石畳の広場で、ヘンリーは大声で前を行く小柄な影を呼び止めた。黒いローブが翻り、訝しげに振り返る。

「ちょうど良かった。紹介するよ」

 クルクル巻き毛のブルネットの青年の肩を抱いて、ヘンリーは飛鳥に歩み寄った。

「デヴィッド・ラザフォード。アーネストの弟だ。僕のプレップ以来の幼馴染なんだ。まだ面識はなかったのだろ? デヴィッドの家は、きみの身元引受人(ガーディアン)なのに」


 そうだった! そういえば、アーネストがそんなことを言っていた。弟が飛鳥と同じ学校にいると。留学に絶対不可欠な身元引受人を引き受けてもらっているのに、挨拶もしていなかった! 彼の方は、ちょくちょくメールをくれて気遣ってくれているのに……。


 飛鳥は羞恥で真っ赤になって頭を低く下げ、思わず勢い良く日本式のお辞儀をしていた。


「初めまして。ご挨拶が遅くなって申し訳ありません。アスカ・トヅキです。このたびは、僕の留学のために、お兄さん、ご両親にはご尽力頂いて、まことにありがとうご……」

 ヘンリーが声を立てて笑い、遮った。

「そんなに堅苦しくならなくてもいいじゃないか。デヴィッドに世話になった訳じゃないんだから」


 デヴィッドも同じように笑いながら、飛鳥の手を握りブンブンと振った。

 笑うとなんとも可愛らしい。お兄さんに似てるな……。飛鳥は漠然とアーネストを思い浮かべていた。


「よろしく。きみのことは兄からきいてるよ。僕の方こそ挨拶が遅れてごめん。ところできみ、ゲームはする? モンスター・テイルは好き? Y社とT社、どっちのファン?」


 デヴィッドは矢継ぎ早に質問を浴びせてくる。かなりのゲーム好きらしい。飛鳥は一つ一つの質問に丁寧に答えながら、こんなイギリスの進学校にもオタクっているんだ……、と軽くカルチャーショックを受けている。



「おい、俺には紹介なしか?」

 エドワードの横やりが入った。ヘンリーは、一人ずつ「親しい友人」だと、元エリオティアンを飛鳥に紹介していった。


 ヘンリーの友人って美形揃いだな。やっぱり類友?


 飛鳥は作り笑いを貼りうかせ、緊張で固くなりながら順番に握手を交わしていく。



 一通り挨拶が済むと、またデヴィッドに腕を掴まれゲーム談義が始まった。


「ほらデイヴ、アスカを放して。もう行かないと遅れてしまうよ」


 ヘンリーがデヴィッドを優しく諭すと、飛鳥は一礼して慌てて駆けて行った。この一団の中で、彼だけが皆の向かう赤煉瓦の学舎ではなく、反対側にある、かなり距離のある石造りの学舎での授業なのだ。




「もっと早く紹介してくれれば良かったのに」

 デヴィッドが唇を尖らせてヘンリーをつついた。

「明日から一週間、きみの家で一緒だろ? アスカはゲームに強いそうだよ」

 デヴィッドは顔を輝かせて頷いた。

「そうか、ハーフタームの間、彼の身柄をうちで預かるんだったね! やった! 休み中ずっと対戦できるじゃないか!」


 もっとも、彼がずっとゲームに付き合ってやるかどうかは知らないけどね、と口には出さずに苦笑して、ヘンリーはデヴィッドを眺める。


「ずいぶん気に入っているんだな。お前が俺たち以外をファーストネームで呼ぶのを初めて聞いた」

「同室だしね。情も移るさ」

 

 情……。これほど、こいつに似合わない言葉はない。

 もう何年も付き合っているが、こいつほど薄情なやつはいない。

 振り回されているだけだと、判ってはいるが離れられない。こいつほど面白いやつはいなかった。

 

 エドワードは肩を震わせて笑いを噛み殺す。


 

「何か言いたそうだね、エド」

「別に」


 自分の気持ちなど見透かしているようなヘンリーの澄ました顔を一瞥すると、エドワードは我慢するのをやめ、豪快に声をたてて笑った。





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