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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
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  故郷3

 テラスからヘンリーの書斎に場所を変えた二人は、とくに会話をかわすわけでもなく、それぞれが各自になすべきことに没頭していた。表面上は。実際には、眼前の書類に目を滑らせながらおのおの別のことに思いを馳せていたのだが――。


 ヘンリーは杜月兄弟について、アーネストはそんなヘンリーについて。


「何か夜食を持ってこさせようか?」


 手にしていた書類から顔をあげてヘンリーが尋ねた。帰ってきてから、アーネストがお茶しか口にしていなかったことを思いだしたのだ。


「いや、――そうだな、何か貰おうか」

 いったん首を横に振りかけて、アーネスは思い返して頷いた。彼もまた、こうして尋ねられたことで、自分がろくな食事を取っていないことに気づいたのだ。


 ヘンリーがメアリーに指示をだすのを聴くともなく聞きながら、アーネストは執務机に着いているヘンリーの傍らの出窓に移る。


「ヘンリー、きみはもう、聴いているんだろ?」

「何を?」

「かの国の情勢だよ」

「そんなにヨシノは手に負えないかい?」


 率直に向けられたアーネストの視線に応えることなく、ヘンリーは手にした書類に視線を落としたまま答えた。


「交渉の席に着いていたのは別の奴だったよ。だけど大したものだった。英国はマシュリク国の議会政治移行に全面協力させられた。制度整備のための専門家派遣を決定したよ。しばらくは、派遣アドバイザー、王族、官僚で構成された委員会が選別した議員で議会を運営、様子を見ながら選挙制に移行する。あの子、あっという間にここまで漕ぎ着けたわけだ」

「アブド大臣が反対派を殺戮しつくした後だからね、そりゃ、話も早いだろうね」


 鼻で嗤うヘンリーに、アーネストは小さなため息で応える。


「自らの手は汚さずに――かい? おまけに英国(こちら側)は国王暗殺未遂に加担した弱みまである。アドバイザー派遣も、法整備も無償奉仕のようなものさ」

「イスラム国家の近代化、民主化に貢献できるんだ。喜ばしいことじゃないのかい?」


 ヘンリーはちらとアーネストに視線を向け、皮肉げにくすりと笑みを漏らす。だが、あの吉野が、白人社会に迎合する国造りを目指すわけがないと、心の中では呟いていた。


「それで、その制度移行にはどれくらいの時間がかかるの? 彼は英国に戻る気はあるのかな?」


 物憂げなヘンリーの問いに、アーネストは肩をすくめる。


「どうだろうねぇ。僕だって、あの子と直接話したわけじゃないからね」


 アーネストにしろ、国王一行暗殺未遂事件に関わった一件で、いまだにかの国の事情に通じているというだけで、もう活動の拠点は英国に戻っているのだ。報告できることは、個人的な問題に関することではない。個人的といえば――。アーネストは、そこで思いだしたように言い添える。


 心配されたエドワードの処分は不問に終わった、と。


 事件そのものが隠蔽されたのだ。関わった当事者は、永遠に口を閉ざすこと。そんな条件で。もちろん暗殺計画を決行し、実質、英国をアブド大臣に売り渡したパイロットは、そんな甘い処置ではすまされなかったが。

 はたしてそのパイロット一人の犯罪であったのか、国防情報参謀部(DIS)容認の許の陰謀であったのかは、うやむやのままにされた。


 マシュリク国側はこの辺りをチラチラと突きながら、英国に新政府樹立の協力を求めたのだ。欧米の掲げる民主国家の理想に追従する――。


 納得しきれないままヘンリーは呟く。


「あの子は、いったい何を目指しているんだろうね?」


 そんな問いにアーネストが答えられるはずがない。


「僕の方こそ知りたいよ。ただ、よく解ったことは、サウード殿下にしろ、ヨシノにせよ、通帳の数字の桁数を増やすだけでは満足しない。形のある何かを成そうとしている、ってことくらいだね」

「そこが、あの子を育てたジェームズ・テイラーとの違いかい?」


 ふと思い至ったその名前に自分自身が驚き、ヘンリーはぼんやりと視線を宙に漂わせた。



 ノックの音に続き、マーカスがお茶とサンドイッチを運んできた。


 二人はソファーに移り、向かいあって腰をおろした。


「もちろん絡んでいるんだろうな、ジェームズ・テイラーも」


 紅茶から立ち昇るゆらゆらと定まらない湯気の行方を追いながら、ヘンリーはセレストブルーの目をわずかに眇める。


「原油? CDS?」

「両方。あの子の目的を追うには、本人に尋ねるよりも為替と先物価格でも追っていた方が解りよいかも知れないね」


 呆れたような、そして半ば諦めたようなヘンリーのため息交じりの言葉に、アーネストは笑い声をたてる。


「資産形成が目的じゃないって、どういうことさ! きみが知りたいのは、あの子がここまで膨れあがった資産で何をするつもりなのかって、こと?」

「知りたいのは、それがどうアスカに繋がるか、この一点だよ。彼のサウード殿下への協力は今までとは違う。目的が判らないんだよ。確かに、温室ガラスや、ルベリーニの事業参画、うちの会社の利益になっている面はたくさんある。間違いなくね。だけど、僕にはこのリスクとリターンは、釣り合っているとはとても思えないんだ」


 ヘンリーは吐き出すように一気に告げて眉をひそめた。


「――あの子らしくない」

「なるほどね」


 かの国に行くまでは、吉野に好意的にその行動を容認していたヘンリーが、戻ってくるなり手の平を返して彼を呼び戻そうとしている。

 それほどに過酷な、薄氷を踏むがごとくの現状であったのかと、アーネストはあえて問い質すこともせずに相槌を打った。


 訊かずともヘンリーの言わんとすることは理解できる。アーネストにしても吉野は根っからのギャンブラーだと思っている。

 プロは、一か八かに賭けたりはしない。勝てる勝負にしか賭けはしない。確率勝負なのだ。では、何の確率なのか? 勝つという状況がどんな利益を吉野にもたらすのか? 


 ヘンリーが引っかかっている疑問はここだ。


 飛鳥を苦しめてまで、かの地に残る理由……。

 飛鳥が、吉野の唯一の砦だったはずなのに。


 それが解らなければ、吉野は呼び戻せない。朧なままの飛鳥の面を振り返らせ、自分に向けさせることはできない。



 それが、今ヘンリーを占める憂いの本質なのだとアーネストは理解し、苦笑を隠すようにサンドイッチを口に運んだ。





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