洞窟5
「アーカシャーのCEOが映像酔いだなんて、いかにもゴシップ誌が喜びそうなネタだね――」
ヘンリーが憮然と、どうにも納得できない様子でぼやいている。
スタッフ用控室のテーブルには、プラスチックのカップの紅茶が湯気をたてている。そこから少し離れた一角に置かれたソファーにいるヘンリーは、めずらしく上着を脱いでネクタイを緩めている。青褪めていた顔色はいくらかマシになっているようだが、立ちあがると眩暈を起こすらしく、デヴィッドにうるさく言われるまでもなく、大人しく肘掛けに頭をのせて横たわっていた。
デヴィッドは紅茶のカップの一方を半身を起こしたヘンリーに渡し、もう一方を自分の口許に運ぶ。
「本当、今までなんともなかったのに、いきなりだもんねぇ。研究の余地ありだね」
他人事のように言うデヴィッドを、ヘンリーは眉根を寄せて睨めつける。
「きっと疲労が溜まっていたんだ。砂漠から帰ってから間もないし。あまり眠れていなかったし」
「アスカちゃんのことで悩みすぎて?」
ヘンリーは鼻で嗤っているデヴィッドを憎々しげに見つめ返した。本人に自覚はないようだが、今日の彼は、いつもよりもずっと攻撃的だ。
「ヘンリー、僕一人で続きを見てきていいかなぁ? きみの映像酔いはおっしゃる通り、疲労からくるものだと思うし。新しく手を入れた部分が問題なわけじゃないからさ」
「それは解るけれど。僕はたった三室で疲労困憊だなんて。これは問題なんじゃないの?」
「一般客は二部屋だよ、一回の入場で進むのはね。一室目でゲームは完結し、次の部屋で商品の薔薇を受け取って終わりだ」
「でもきみは、」
――ランダムに投影されるシーンの順番やストーリーが変わるんだよ!
確か、ドアを選ぶときにそう言ったはずだと、ヘンリーは納得がいかない眼差しを向けている。
「関係者にだけね、全室回れるパスを配ってるんだよ。きみがいなかった間、テーマパークやイベント会場へのオファーがすごかったからね。それにリピーターも見込んでいる。欧州の各支店に持っていくのは、各パートの切り分けになっちゃうけど、この会場では全欧州で展開予定のイベントをすべて網羅できるようにしてるんだ」
白い簡易テーブルに腰かけてお茶を飲んでいるデヴィッドを見上げ、ヘンリーはようやく納得したように頷いた。
「すまなかった」
きょとんと、デヴィッドはヘーゼルの瞳を目いっぱい開いてヘンリーを凝視した。
「映像酔いが酷すぎてどうかしちゃったの? きみが謝るなんて!」
間を置いて素っ頓狂な声をあげられ、ヘンリーは困ったように苦笑いする。
「人が真摯に謝っているのに、どうかした? はないだろう? 悪かったと思ったから謝ったんだ。一番大変な時に業務をきみに丸投げしたんだもの。きみに多大な負担をかけてしまって、本当にすまなかった」
姿勢を正し、真っ直ぐに自分を見つめて謝るセレストブルーの揺るぎない視線に、デヴィッドは唇をへの字に曲げて黙りこんだ。
「デイヴ、」
「……何、言っているんだよ、今さら。あの状況下じゃ当然じゃないか。謝るようなことじゃないよ」
「それなら、ありがとうかな? 僕がいない間、会社を守ってくれてありがとう。きみにも、アーニーにも、感謝してもしきれないよ」
長いしなやかな掌で口許を覆い、デヴィッドは顔を背けた。
「その感謝の言葉は、アスカちゃんこそが受け取るべきじゃないの? ヨシノのために闘いながら、こんなすごい幻想世界を作りあげたのは彼なんだから」
やがて深い吐息を漏らし、デヴィッドは顔をあげてヘンリーに淋しそうな笑みを向けた。
「きみの不満は解るよ、ヘンリー。僕だってあの二人といると孤独を感じる時がある。僕たちとは違う理屈、違う信念で彼らの世界は回っている。そう感じる時が確かにあるよ。でも、」
テーブルからぴょんと飛び降りて、デヴィッドは屈託なく笑って見せた。内緒話をするように声を落として続ける。ヘーゼルの瞳が白んだ蛍光灯の下で宝石のように光り、その色彩を変えている。
「僕は、アスカちゃんの作る世界に魅了されているんだよ」と、デヴィッドは少しおどけた仕草でひょいと肩をすくめてみせた。
「彼が国賊のガイフォークスを天国に送りこもうと、この気持ちは揺るがなかったなぁ。それはきみだって同じだろ?」
ウイスタンでの、大騒ぎになった映像イベントを懐かしく思いだし、ヘンリーは苦笑しながら首を振った。決して手放しで賛同したわけではなかった。けれど、確かに彼はあの時、最後までヴァイオリンを弾くことをやめなかったのだ。
「デイヴ、僕は――」
「彼が美しい世界を追い続ける限り、僕たちは同じ方向に顔を向けて、一緒に進んでいける。僕はそう信じてるよ」
立ちあがろうとしたヘンリーを首を横に振って制して、デヴィッドは人差し指を立てて唇を尖らせた。
「もうしばらく横になってなきゃ駄目だよ、ヘンリー。ほら、お茶を飲んだら横になる!」
「そうだね、少し休ませてもらおうかな」
にっこりと微笑んで、彼は言われた通りに身体を横たえ、ほうっと息を継いだ。
「僕は少し、自分を見失っていたのかな――」
飛鳥と出会ったばかりの頃の、あの想い。彼の技術に触れ、彼の夢を垣間見た時のあの新鮮な驚き、感動――。
――僕は、誰だ?
答えられなかったのは、自分自身が判らなくなっていたからかもしれない。
「スタッフには伝えたし、ここは鍵をかけておくから、出る時は電話して。僕はアスカちゃんの謎掛けを解きにもう少し回ってくるからね」
ヘンリーの傍らにしゃがみ込み、デヴィッドは彼の顔色を確かめるように覗きこんだ。
「OK、でもデイヴ、僕もまた挑戦するよ」
「無理しないの!」
ヘーゼルの瞳を猫のように輝かせて釘を刺してから、デヴィッドは立ちあがった。
「ゆっくり休めば、いいアイデアも浮かぶよ」
ヘンリーは微笑んだまま目を瞑り、呟いた。
それに、イベントは、まだ始まったばかりなのだから……。




