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秋の洗濯室(ローンドリ)

 夏が終わり、ヘンリーは全寮制の寄宿学校に戻って行った。


 朝の決まった時間になってもヘンリーが来ない。わかっているのに、サラは朝から落ち着かなかった。ティーテーブルで、一人で朝食を食べる。いつものように、あれこれうるさく言うヘンリーはいないのに、サラは出された朝食を、時間をかけて、少しずつ口に入れながら全部平らげた。

 食べ終わると、いつもの場所に座って、別れ際にヘンリーのくれた『純粋数学要覧』のコピーに目を落とす。


 欲しいものはない? と聞かれて、この本が読みたいと言った。古いものだから手に入らないと知っていたのに。なんとなく、口から出てしまった。ヘンリーなら、サラの望みを叶えてくれるような気がして。


『本は手に入らなかった。でも、ほら。本の中身はコピーしてもらえたよ』

 と、分厚い紙の束を差し出された。

 『友達のお父さんが大学教授なんだ。友達に頼んで、そのお父さんのツテで探して貰えたんだ。この本、大学の所蔵品として残っているだけなんだって。ラッキーだったよ。

 友達は、お父さんから、ラマヌジャンが読むのかって笑われたって。

 ラマヌジャンって誰? サラは、知っている?』


 サラは、ヘンリーの言葉を、一言一句思い出していた。

 『純粋数学要覧』は、インドの数学者ラマヌジャンが、子供の頃使用していた数学の書物だ。大学初年級までに習う六千近い定理が、ほぼ証明なしに並べられている。

 ヘンリーが次に戻ってくるのは、十月半ばだと言っていた。それまでに、できる限り証明してみよう。ラマヌジャンのように。きっと、ヘンリーが戻ってきたとき褒めてくれる。

 サラ、すごいね。

と言って、きっと、いつものように、頭を撫でてくれる。

 こうやって数学に没頭していれば、この落ち着かないイライラした気分を忘れられる気がした。




 毎日、淡々と同じ日々が繰り返されて行く。

 朝起きて、シャワーをあびて、朝食を食べて、定理の証明をして、夕食を食べて、定理の証明を続けて、いつの間にか眠る。サラの日常は機械のように繰り返される。

 土曜日には、いつも決まった時間にヘンリーが電話をかけてきてくれた。当たり障りのない会話の後、ヘンリーはいつも必ず、

 『ちゃんと食べるんだよ。サラは夢中になるとすぐ忘れてしまうから』

 と、締めくくって、電話を切った。

 だからサラは、毎日、食欲もないのに、我慢してベイクド・ビーンズをつつき、トーストをかじる。ヘンリーがいる間に、ベーコンとソーセージ、目玉焼きは出さないようにしてくれたから、なんとか残さないで済む。

 いつの間にか、昼食の替わりに角砂糖をかじるようになった。お腹が空かない。イライラする。





 十月になり、気温がぐんと下がりどんよりした曇り空の日々が増えてきた。部屋から出ることの無いサラは、相変わらず薄手のパンジャビ・スーツを着ていた。部屋の中は快適な温度に空調されているため、秋がきていることさえ、知らないのかもしれない。


 コンコン、とドアがノックされ、間を置いてドアが開いた。


「お嬢さん」


 マーカスが呼びかける。案の定、サラは床に座って何か書いていて、マーカスの声は届いていないようだった。

「サラお嬢さん」

 マーカスはサラに歩み寄り、もう一度声をかけた。

 近距離で呼ばれ、サラはびくりと跳ねるように顔を上げた。

「パソコンの部品が届きました。ご覧になられますか?」

 サラは無表情のまま立ち上がった。

「地下は冷えるので、何か羽織られた方がよろしいですよ」

 首を横に振って断った。




「こちらです」

 使用人専用の階段を下りた先にあるドアを開けると、がらんとした部屋の一方に段ボール箱が山と積まれている。

 カビ臭く湿っていて、じっとりとした独特の空気が籠っていた。今は使われていない使用人用のダイニング・ルームだ。

「土曜日には、スミスさんが来られるそうです。除湿器を持ってきて下さるそうなので、今よりは、マシになると思いますよ。作業はここで行って、組み立てた後、隣へ運ぶようにと聞いておりますが……」

 マーカスは、早速座り込んで段ボール箱を開けに掛かっているサラの背中越しに声をかけた。

「カッターナイフを持ってまいりましょう」

 やはり返事はなかった。





 ダイニング・ルームの続き部屋は、かなり広々とした洗濯室だった。

 スミスの指示で、今は使われていないその部屋をパソコンルームにすることになった。パソコンの部品が届くまでの間に、急いで工事が進められた。元々は石造りの床は、振動を吸収する特殊なゴム製の床材で底上げされたため、入り口に階段が組み足されている。白い漆喰塗りの天井の空調設備工事は、ぎりぎり終わったばかりだ。部屋の中央にはすでに、五段のメタルラックが二組ずつ五列組まれて設置されている。



 ジョン・スミスが、連れて来たエンジニアはこの部屋に入るなり、

「すごいな!」

 と驚嘆の声を上げた。

「外観に騙されましたよ。ここは、ナショナルトラストが管理するような領主館(マナー・ハウス)で、中は博物館だと」

 エンジニアはおどけて言った。

「その通り。上階は十九世紀の博物館だな。ここだけが二十一世紀だ」




 作業部屋に入るとスミスは、サラの組み立てた基板を見本にして同じ物を作り、出来上がったら隣室のメタルラックに並べていくように、と簡単な指示を出し、二人を残してさっさと部屋を後にした。


 日の当たらない底冷えのする地下室だというのに、エンジニアは速攻、窮屈そうなジャケットを脱ぎ、ネクタイを外した。カッターシャツの袖をまくり上げ、作業に取り掛かる。

 作業台の傍に、大きな段ボールが並べられ、番号が振られている。これがエンジニアの割り当てらしい。中身はすでに仕分けされていて組み立てるだけで良さそうだ。

 エンジニアは、しばらく見本の基板をじっくりと眺めていたが、驚愕の面持ちでサラを凝視した。


「ヘテロジニアスコンピューティング……」


 卓上で作業するエンジニアとは違い、床に胡坐をかいて作業しているサラは、黙々と手を動かすのみで、声をかけても顔を上げることさえしない。


 エンジニアはいきなり立ち上がると、部屋を飛び出した。





「スミスさん! スミスさん!」


 大声で呼びながら階段を駆け上がり、通ってきた廊下を逆行する。

 玄関ホールまで戻ったところで執事に声をかけられ、スミスのいる広間まで案内して貰えた。


「スミスさん、本当にあれを作るんですか?あんなもの、作ったって動きませんよ」

「どうして?」

 ソファーに腰かけ、煙草をくゆらせていたスミスは面倒くさそうに尋ねた。

「ストリーム・プロセッシングをどうするんです?」

「わかるように言ってくれ。私は、専門家じゃないんだ。君と違って」

「プログラミングです。ハードを作ったって、ソフトがなけりゃ、ただのパーツの寄せ集めですよ。GPUをあんなに組み入れて、並列処理するなんて、まともじゃない!」

「その辺はあの子に聞いてくれ。私じゃわからない。それに……、きみにプログラミングまで頼んだかな? きみの仕事じゃない」

 スミスはエンジニアを冷たく見据え、そして、煙草をくわえたままニッと笑った。

「まともじゃないんだよ、あの子は。言っただろう? きみごときが理解できるような、まともなことをするわけがないだろう? それより、楽しめよ。本物の天才の仕事だ」



 エンジニアは作業室に戻ると、何かとサラに話しかけ、質問してみた。だが、サラが一切しゃべらず返事もしないので、諦めて黙々と作業に専念するより仕方がなかった。


 静まり返った部屋に、カチャカチャと、金属音だけが小さく響く。





「このペースなら、一週間もあれば組み上がりそうですね」 


 エンジニアは、ほっとして、ティー・セットを運んできたマーカスとスミスに話しかけた。


「でも、組み立てよりも配線の方が、時間が掛かるからなぁ。五十台もクラスタリングするなんて、信じられない……」

「配線は一人でできるわ」


 サラが、作業の手を休めることなく呟いた。

 エンジニアは手を止め、目を大きく見開いてサラを見つめた。





「お茶になさいませんか」

 マーカスがエンジニアに声をかけた。

「サラお嬢さんも」

 サラは床に座ったまま首を横に振った。さすがに寒さが堪えたのか、パンジャビ・スーツの上にカシミアの大判ストールを羽織っている。

 サラの座っている場所には、小型のカーペットが敷いてあった。常に床の上で作業するサラを気遣ったマーカスの配慮だった。




 作業台とは別に用意されたティーーブルについて、エンジニアは紅茶にミルクと砂糖をたっぷり入れて一口飲み、大きく切り分けられたヴィクトリアンケーキを頬張った。カップを何度も口に運びながら、向いに座っているスミスに何か尋ねたそうな視線を送る。だが当のスミスは素知らぬ顔で紅茶を飲んでいる。


「で、基板の組み立てに一週間かかるって?」

 しばらくして、やっとスミスが話を振ってきた。

「早くてそれくらいですかねぇ」

 エンジニアは、マーカスに視線を向けて、

「これ、旨いですね。俺のお袋のより断然旨いですよ」

 と、二個目のケーキに取り掛かりながら言った。スミスにいろいろと聞きたいのに知らぬふりをされ、エンジニアも少しヘソを曲げていたのだ。


「ありがとうございます。家政婦のボイドさんに伝えておきます。喜びます」

 マーカスは、エンジニアとスミスのカップに紅茶を継ぎ足し、ちらりと自分の腕時計に目をやった。

「少し、失礼します」

 マーカスはサラに歩み寄ると、小さな声で何か囁いた。

 マーカスがいつも以上にサラに接近したことで、サラは露骨に嫌そうな顔をしたが、すぐにいつもの無表情に戻り、頷いて立ち上がった。そして素直に、マーカスに従って部屋から出て行った。



「何なんですか、あの子は?」

 サラがいなくなるなり、エンジニアはスミスに顔を付きだすようにして額を寄せて、早口で声を潜めて聞いた。

「説明しただろう。インドの天才エンジニアさ。目の前で見ていれば、充分わかっただろう?」

 眉をしかめて、スミスもまた小声で答える。

「目の前で見ていても、信じられませんよ!」

 エンジニアは、自分のカップに砂糖を何杯も入れ、ガチャガチャと神経質にかき回す。

「しゃべれないのかと思っていた。配線は一人でやるって! あんな子どもが!」

「あんな子どもが、組み立て作業もやっているだろう。君より、速い。いいか、あの子のことは国家機密なんだ。二千年に一人出るか出ないかのIQ二百越えの天才児だ。国の宝だよ。世界中から狙われているんだ。絶対に漏らすなよ。しゃべったらMI6(秘密情報部)に消されるぞ」


 エンジニアは緊張した面もちで唾を飲み込み、頷いた。脅しはきいているらしい。だが、それとは裏腹に、瞳は好奇心に輝いている。この奇妙な秘密の共有に満足しているらしい。

「しゃべりませんよ。絶対に」

 エンジニアは力強く何度も頷くと、真面目な面持ちで言った。

「約束します」


 スミスも頷いて真顔のままティーカップを口に運ぶ。だが内心、笑いを噛み殺すのに必死だった。


 こんなバカ話を信じる奴が本当にいるのか! 


 ここに来るまでの道中、仕事の内容を説明した。サラに関しては触れたくなかったのだが、サラがいないとそもそも組み立てられない。仕方なく話すと、必要以上に興味を持たれてしまった。開き直って適当に話を盛って、面白おかしく尾ひれを付けたら、頭から信じ込んでしまい、冗談だ、の一言が言えなくなってしまった。

 まぁ、全てがでたらめという訳でもない。自分でしゃべっていても、十分バカらしかったが、こいつは本物のバカだ! 推理小説の読みすぎだ! まぁ、いい。こんなバカ話で、こいつの口を塞げるのなら。

 地元の名士、リチャード・ソールスベリー、マーシュコート伯爵に私生児が、―それも混血児が―、いることが知れ渡ってしまうよりは、よほどましだ。


 スミスは、この純朴なエンジニアに、にこやかに笑いかけて言った。

「そのケーキ、そんなに気にいったのなら、土産用に頼んでおこうか?」









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