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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
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  道程8

「アスカの言うことは支離滅裂で、どうも今ひとつ腑に落ちないんだ。それで結局、ヨシノはきみに何を頼んだの?」


 ヘンリーは落ち着いた口調でアレンに問いかけ、上品な仕草でティーカップを口許に運んでいる。唐突にそんな不安定な飛鳥の様子を聞かされたアレンは、怪訝そうに兄を見つめる。


「――僕には、そんな素振りは見せなかった。アスカさんは、僕をとても気遣って下さっていて……」


 早朝に叩き起こされ、朝食につきあうようにと言われて慌てて身支度したばかりの彼の頭は、まだ上手く働いていないようだった。軽くパニックに陥っているのかもしれない。

 兄はしばらくすればイベント会場に向かわねばならないはず。忙しい時間を割いて、何よりも優先させて自分に問うてくれているのに――。

 と、自分をもどかしく感じているのに、アレンはいまだ、どんよりと濁った思考を、上手くまとめることができないでいるのだ。


「ヨシノは――、」

「彼が心配しているのは、あの映像を制作し動作させていたアスカと、デイヴだね、この場合」


 アレンは小さく頷く。


「それは解った。それから?」

「あの映像を見て錯乱症状を起こしている反乱者たちのために、症状を緩和させる映像を作って欲しいって」

「そこだよ。まずそこが理解できない。彼らは犯罪者だろう? 国家反逆罪で全員、死刑になるはずの連中だ。そもそもヨシノや殿下の命を狙って侵入していたテロリストじゃないか」


 訝しげにというよりも、穏やかな口調の内に見え隠れする静かな憤りを感じて、アレンは驚いたように兄を凝視した。取り乱している訳でもなく語気を荒げているわけでもない。でも確かに、兄は全身で怒りを露わにしているのだ。そんな空気をまとっている。

 その静かな怒りに、アレンはごくりと息を呑んだ。背筋にすっと冷たいものが通り抜けていた。言葉を詰まらせながら、彼は兄の望む回答を必死で探す。


「あ――、ヨシノは――、アスカさんは、どうして彼が、そんなにヨシノのことを気にされるのでしょう? ヨシノは映像を直接見たわけではないし、心配しているのは彼の方なのに……」


 アレンにだって、今のこの状態は理解の範疇を超えている。飛鳥が取り乱しているというのなら、それは吉野の言う通り、戦闘行為という目的で映像を作り操作していたことが引き起こしたPTSDというのが、一番しっくりくるのではないだろうか。これまでは、イベント制作の追い込みの忙しさに追われ、表面化していなかっただけなのではないか。

 そして意識下でずっと吉野を気遣っていた彼の想いを、自分の不用意な言葉が刺激し決壊させてしまったのではないか……。


 想いに囚われ、自分と同じように、いやそれ以上に吉野を心配し心を痛めていた飛鳥を忖度(そんたく)することさえ、自分にはできていなかったのだ。そして吉野は無事だったのだから、と安心しきって、我儘な自己憐憫に溺れていたなんて――。


 考えれば考えるほど甘え切っていた自分が腹立たしく、アレンは伏せた面を兄に向けることができないでいる。


「ヨシノは僕のせいで、今までどれほど傷ついてきたか。僕はまた、繰り返してしまった」


 ヘンリーは立ちあがってテーブル横の窓を開け、その窓枠によりかかって呟いた。いまだひんやりとした朝の冷気が室内に流れこみ、アレンはぶるりと身震いする。


「アスカがそう言ったんだ。きみ、この意味が読み解ける?」


 彼の視線は遠く、青々とした芝生を超え、桜の林に向けられているのだろうか。柔らかな朝の陽射しに照らされ深い緑が、どこか遠い。


 アレンは面をあげ、淋しげな兄の横顔をじっと見つめた。


 飛鳥さんが吉野を傷つけるはずがない――。


 ヘンリーと同様に記憶の襞を一枚一枚捲り探しているかのように、アレンは目を細め、窓の外を、その晴れ渡る夏の空をぼんやりと眺める。


 静寂の中のはてのない蒼が、記憶の中の蒼空に重なる。傾いた陽射し、頬をなぶる風――。


「――ヨシノの腕には、細かい傷が、たくさんあったんです。今は、その傷痕は、もう判らないほどに薄くなっていますが」


 兄にではなく、独り言でも言っているかのように、アレンは抑揚のない調子で呟いた。


「――アスカさんが、薬の離脱症状で苦しんでいた時についた傷。錯乱して暴れるアスカさんがヨシノにしがみついて、皮膚に食いこんでできた爪痕だって言っていました……。きっと、その時のことを、思いだすんだ……。躰についた傷痕は消えても、ヨシノの心の傷は消えたりしない。彼は、忘れるってことが、できないから……」


「アスカの苦しみを見ていた彼のトラウマを、錯乱症状を起こして苛まれている連中が刺激し、その記憶を呼び覚ましてしまっている、そういうことだね?」


 アレンは唇を引き結んで、黙ったまま頷いた。





「彼らに、アスカを重ねるのか……」


 たとえ死刑になる身の上であっても、今、この瞬間の苦しみから解放してやりたい、と。


 ヨシノ、きみはそう望むのか――。


 忘却の彼方に薄れてはくれない記憶。延々と繰り返される苦痛。果てのない世界は、この空のように美しいものであってこそ、耐えられるものと成り得るのに――。

 

 彼もまた、今この瞬間、繋がるこの蒼穹を見あげているだろうか、あの灼熱の地で……。


 ヘンリーは、霞んだ蒼のその奥を見極めるように目を細めていた。







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