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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
596/805

  道程7

 その夜遅く、イベント初日を無事に終えて帰宅したヘンリーは、何よりもまず飛鳥のいるコンピュータールームに直行していた。


「どうなんだろう?」


 振り返りもせずに、モニター画面に向きあったままの飛鳥が声をかけてくる。

 ヘンリーは、「そうだね、」とまずは上着を脱いでネクタイを緩めながら、彼の横に腰をおろした。


「メールで概要は理解したけれど。どうだろうね、僕は見たといっても断片的にだし、臨場感というか、そんなものを感じるほどのめり込んで見ていたわけでもないからね」


 飛鳥はその返答にも、ちらと一瞥(いちべつ)を返しただけで、すぐに自身の作った映像を解析するためのモニター画面の文字列を追っている。そんな彼の横顔を眺めながら、ヘンリーはゆっくりと記憶を掘りおこすように考えんだ。


「アレンは、あの映像をじかに体験した連中のあいだでかなりの錯乱者がでてるって言うんだ。でも話を聴いた限りでは、吉野が心配しているのは、操作していた僕たちの方なんだ。やっぱり、あいつに直接訊かないと解らないかな? あいつ、あの映像の中に何を見つけたんだろう?」


 かつて飛鳥の作った映像を解析中に吉野が陥った、酷い映像酔いの記憶がヘンリーの脳裏をよぎっていた。あの状態を飛鳥は知らない。パリでの対テロ映像がもたらした、鑑賞者の潜在意識を揺り動かし変容させてしまうほどの強烈な効果のことも。

 だが、飛鳥もある程度は自分の作る映像の危険性を理解している。飛鳥自身がロレンツォを通して調べさせた、映像が麻薬に似た症状を引き起こす事実も。ヘンリーはサラが手を加える理由づけを映像酔いの危険性と説明したが、飛鳥はそれに意義を唱えることもなく納得している。


「パリの時やメイボールのイベントみたいな閉鎖された空間じゃなかったし、視点を固定しなきゃいけないような宇宙空間でもなかったから油断してたんだ。完全な僕の失態だ」


 飛鳥は歯ぎしりしながら画面を追い続けている。


「アスカ、」自分の声が届いていないような、異常なほど集中して目まぐるしく小刻みに動いている飛鳥の眼差しにうすら寒さを覚え、ヘンリーはその意識を呼び戻そうと無意識に手を伸ばして彼の額から下を遮った。


「アスカ、落ち着いて」

「離せよ!」


 いつもの彼とは違う乱暴な口調に一瞬目を瞠り、ヘンリーは被せていた手を引いた。自分を睨めつける鳶色の瞳は、怒りに燃えていた。


「邪魔するな!」

「ヨシノは無事だ。あの映像には触れていない。大丈夫だ、アスカ」



 虚空を睨んでいた飛鳥の眉間に、眉根が寄せられ、ぎゅっと瞼が閉じられる。


「僕は……。ヘンリー、ごめん」


 深いため息とともに両手で顔を覆った飛鳥を覗きあげるように、ヘンリーは床に膝を折り、肘掛けにかかる飛鳥の腕にその手を重ねる。


「いいんだよ、気持ちは理解できる」


「アレンには、あんな偉そうなことを言っておいて――。僕はてんで駄目なんだ。僕の作った映像のせいであいつが苦しんでいると思うと、気がおかしくなりそうなんだ」


 顔全体を覆う両の手の隙間から零れ落ちるくぐもった声に、ヘンリーもまた唇を噛んだ。


「僕は向こうで、何日間にもわたって彼と行動をともにしていたんだ。心配いらないよ。彼は何ともない。むしろ、ダメージを受けているのはきみだろう? 彼の言うように、きみがPTSDの発症リスクを抱えているんだ」


 いや、もう発症しているのかもしれない。胃を傷めていることで、この映像が原因であると捉えられなかっただけで――。様々な要因が重なりすぎて、症状を独立して判断できなかっただけで!


 ヘンリーは己の迂闊さに奥歯を噛みしめていた。飛鳥の瞼が伏せられて、浅はかな自分の情けない面を見ないでいてくれていることに、わずかな安堵さえ覚えるほどに。


 飛鳥は駄々を捏ねるように、激しく頭を振った。


「ヘンリー、あいつがあの映像を見た、見ていないなんて関係ないんだよ。僕の作ったあの映像が人を狂わせ、その狂った人間をあいつは見ている。あいつは共鳴してしまうんだ。優しいから。馬鹿みたいに、優しいから」


 両手をかくんと膝に落とし、飛鳥は潤んだ瞳をヘンリーに向けた。


「あいつが僕のせいで、今までどれほど傷ついてきたか……。僕は充分に知っているのに。僕はまた、繰り返してしまったんだ」


 再び両の手で顔を覆い、飛鳥はくるりと椅子を回転させて背を向けた。静かな押し殺した嗚咽を、ヘンリーは背中越しにみせつけられた。その拒絶に、ヘンリーは拳を握り締めて立ちあがり大きく息を吸いこんだ。


「アスカ、こっちを向いて。一人で抱え込まないで。いつになったら、きみたちは僕のことを信頼してくれるんだい? 僕は、いつまで待てばいいの?」


 感情の昂ぶりのまま発せられた言葉は、はたして彼に届いたのか。


 ヘンリーは応えのない沈黙の中、ただじっと立ちつくすだけだった。





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