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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
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  道程6

「洗脳?」


 飛鳥の呟いたその言葉を、アレンもまた鸚鵡返しに繰り返した。幻影(バーチャル)にすぎない映像によって傷ついた心を、映像によって癒す。それがなぜ駄目なのか、彼には理解できなかった。


「洗脳だよ、それは」

 飛鳥はまた苦しげに繰り返した。

「どうしてですか?」

「心の襞に刻まれた記憶を消すことは、TSの映像にだって無理だ。それをなかったことにする、その記憶を無意味なものにするには、それ以上に強烈な、それを打ち消してしまえるほどの印象を植えつけなければならない。あいつの望んでいるのは、そういうことだと思う」

「それは、いけないことなのですか?」


 辛い記憶を上書きする……。


 忘れることはなくても、その出来事が無意味になるくらいに感情を変容させることができるのなら、自分だってしてほしいくらいだ。


 飛鳥を見据えるアレンの瞳は、そんな想いを訴えているように熱を孕んだ強い光を帯びていた。


「僕はそれで、とんでもない失態を犯してしまっているんだ」


 震える声で答え、飛鳥はテーブルの上に置かれていた自身の拳を、戒めるようにきつく握りしめていた。


「失態って――?」

「憑りついた恐怖を拭いさるほどの強烈な体験。人の心は千差万別だ。でも人類に共通の手段がひとつある。それが何か分かる?」


 皮肉げに唇を歪めている飛鳥の哀し気な面に、アレンは自分自身も傷ついてしまいそうなやるせなさを感じながら、「いいえ」と首を振った。


「麻薬だよ」


 静かな、それまで飛鳥の見せていた苦悩とはかけ離れた静かな声音で告げられた言葉に、アレンは目を瞠ってその口許を凝視していた。飛鳥の薄い乾いた唇はちっとも吉野に似ていない。それなのに、なぜだか彼を思わせた。


 ふっとその口角があがった。


 そうか、笑い方が同じなんだ、とぼんやりと眼前の飛鳥のうえに、アレンは吉野の面影を重ねていた。そして黙したまま、その唇が続きを語るのを待った。


「死の恐怖すら楽々と超える。特にあいつのいるあの辺りは、その歴史も長い。古来から使われてきた手段だよ。だけどそれとは別に、もう一つあるんだ――」


 そこまで聴いて、アレンは納得したように頷いた。


「宗教ですね。ヨシノは、パリのテロ会場で使われたような映像を望んでいるのですね」


 吐息混じりに、アレンは飛鳥の言葉を継いでいた。


 吉野が自分には見るなと言った映像を、治療の一環として彼らに見せようとしているのなら、飛鳥が協力を拒否するのも解る気がしたのだ。

 恐怖に上書きするどころではない。人格そのものが変わってしまう。もともと信仰心を持っていた人たちだけではない、深い意識の奥底に沈んでいる原風景ともいえる何かを呼び覚まして揺り動かす。飛鳥の作った映像はそれほどに強烈な力を持っている。


 アレンはそんなふうに伝え聞いたのだ。デヴィッド卿や、――吉野自身から。



「他人との境界線が曖昧で苦しんでいるのは、あいつなんだよ。今だってきっとそうだ。見ていられないんだよ。だけど、あいつは目を逸らさない。じっと見つめたまま自分に出来ることを探すんだ」

「――どうしてそんなことに? そんな……」


 アレンは納得しかねる様子で形の良い眉を寄せ、頭を振った。映像の兵士の強烈な映像で錯乱者が出ているのは理解できた。その治療に吉野が飛鳥の映像を頼りたい気持ちも――。そして、飛鳥が倫理的な観点からそれを拒否するのも。でも、なぜ、そこで吉野が苦しむことになるのか? ここで苦しんでいるのは、彼や、彼が守ろうとしているサウードを害そうとした敵ばかりなのに。


 吉野の行動はいつも明快で合理的だった。統制された数字の配列のように、それは隙がなく無駄がない。それなのに、時々こんなふうに気まぐれに、アレンには到底理解できないことを言いだすのだ。そして、飛鳥はそれを当たり前のこととして理解する。受容する、しないは別としても。


 知りたいと追い続けても、決して近づけない背中――。手を差し伸べてもらい、その手を握りしめたと思っていても、いつの間にかするりとぬけて、気がつけば遥か遠く。近づいては消え、追いかけても霞むばかりの蜃気楼に、打ち砕かれた希望の屍の山――。


 またぞろ込みあげてきた苦みに、アレンはもうこれ以上、ひとかけらの想いも零さぬようにと固く口を閉じる。




「吉野は、優しいから」


 しばらくの間、二人とも黙ったまま紫陽花の花が風に揺れるのを眺めていた。その重苦しい沈黙を破って、飛鳥がぽつりと呟いた。


「子どもの頃から変わらない。あいつは、誰よりも優しいから」


 アレンはただ、飛鳥を見つめていた。


「僕の映像は特殊な波形を作っているらしくてね――。イベントで使う映像には、サラが手を加えてくれているんだ。だけど、あれはサラには見せていないから。デヴィ――、そうか、デヴィもあれを見て動かしているんだった!」


 急に声を荒げて立ちあがった飛鳥を、アレンは驚いたように見あげる。


「デヴィは――。それにヘンリーも。問題ないか、影響はないか確かめないと! 吉野の件は保留にして、アレン。あいつの望むようにはできないけど、僕に打てる手を探してみるから」


 早口で言い残し、返事も待たずに館に向かって駆けだした飛鳥を、アレンは呆気に取られたまま見送っている。


「予測不可能なところまで、兄弟なんだ。この人たち――」




 黒雲が湧き、ひと雨きそうな空を見あげる。急いでティーセットをトレイに片づけ、アレンも立ちあがる。


 だがテラスから館におりる階段脇に咲く紫陽花の前で、彼はふと足を止めた。

 デヴィッドに貰った日本の、吉野の生家の絵に描かれていたものと何ら変わらない紫陽花が、ぽつりぽつりと落ち始めた冷たい礫に震えている。


 ――同じ苗でも日本とここじゃ、花の色が変わるんだ。土が違うからな。


 心に浮かんでいたのは、吉野が以前、教えてくれたことだった。


 色は変われど、その地に根づき大輪の花を咲かせる。その形、そこに脈打つ命は、どこで花開こうと変わらない、と。


 うつろう色に惑わされるな。彼を形作るその根源を信じぬくんだ。飛鳥のように――。


 しめやかな雨音に混じり、紫陽花が囁きかける。


「ありがとう。僕はもう目を逸らさない。僕も、僕にできることを探す」


 アレンはそっと身を屈め、紫陽花の青い花弁の一枚にキスを落とした。そして、揺れる枝葉と花々を叩く雨の中、それに負けない鮮やかな笑みを浮かべて、足下の階段をゆっくりと下っていった。







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