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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
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  道程3

 こんなこと、誰に相談すればいいのだろうか……。


 アレンは一通り吉野やサウードの近況を語り終えると、内側に抱える想いをもてあましたまま、ぼんやりと皆の顔を見わたしていた。

 そんな心ここに在らずといったようすの彼を気遣ったのか、フレデリックが、「きみのいない間に睡蓮が見ごとに咲いてるんだ。帰る前にもう一度見ておきたくて。つき合ってくれる?」と、思いたったかのように庭に誘った。




 紫陽花の小径をゆるゆるとあがりきった場所にあるゴールドクレストの林に至るまでの空き地は、知らぬ間にいく種類もの薔薇が植えられていて、取り取りの美を競いあっている。目新しいその風景に、アレンは驚いて足を留めた。


 知らなかった。いや、聞いていた。感心がなかったのだ。吉野がこの館を離れてから、アレンは庭のこちら側にくる気になどなれなかったから。彼は桜林だけを訪れ、花のない季節でさえも、ただその樹々の下だけをそぞろ歩いていたのだった。


「きみの瞳の色だね」

「兄のだよ。父が兄のために作った薔薇だって聞いてる」


 青紫の神秘的な色をのせる花弁に目を留めているフレデリックに、アレンは自慢げな笑みをみせる。

 こんな時、彼はなぜこうも嬉しそうな笑みを浮かべるのか、フレデリックには不思議でならなかった。兄が自慢で仕方がないのは解るが、そこに自分がいないことに寂寞感はないのか? 父の愛を独占してきた(ヘンリー)への嫉妬や妬みはないのだろうか――。


「この薔薇は、これから3DTSタブレットのシンボルロゴになるんだ」


 陽の光を受けて輝く薔薇に負けじと瞳を輝かせて、数日後に迫ったイベントについて熱く語り始めたアレンに、フレデリックは頬笑みながら何度も相槌を打った。自分の思い描くような感情は、彼には無縁のように思えて安堵したのだ。そして、先までの物憂げな彼の様子は自分の杞憂で、たんなる旅の疲れのせいだったのだ、と思い始めたのと同じとき、アレンは遠目に煌く陽光を照り返している池に気づいて、その場に釘づけされたかのように足を止めていた。


 だがアレンは深くため息をつくと、今までよりもいくぶん重たげに、また歩きだした。そんな彼を、フレデリックは気遣わしげに見つめている。



「この池は、ヨシノが僕のために設計してくれたんだ。でも、本当はね、兄がサラにプレゼントした池だったのに――」


 複雑な陰影を落とす彼の瞳は、もうそこまで迫っている睡蓮の群生する池に据えられている。


 せっかくここまで足を運んできたというのに、水面に揺蕩うほとんどの睡蓮はすでにその花弁を閉じていた。



「睡蓮はもう微睡みの中か。来る時間が遅すぎたね」


 どこかほっとしたように微笑んで、アレンは池にかかる橋の緑の欄干に寄りかかった。


「ヨシノはいつも怒っていた。兄は、サラばかり可愛がって、僕には冷たいって」


 今までついぞヘンリーに対して批判めいたことを口にしたことのなかったアレンの口から零れ落ちた言葉に、フレデリックは息を呑んで頷いた。


「彼が、僕の代わりにあんなふうに怒ってくれたから、僕は自分の中に汚い思いを溜めこまずに済んでいたんだ」


 水底まで見渡せる透明な水面に映る自分の影を見ているのか、わずかな風に揺れる睡蓮の葉を見ているのか――。


「僕は皆が言うような、天使なんかじゃない」


 欄干にかけた腕に顔を伏せた、アレンのくぐもった声音が鈍く響く。


「アレン――」


 そっとその背に手を添えながら、フレデリックはかけるべき言葉を探る。だが泣いているのかと思ったアレンは、ぐいと身を起こしてフレデリックを振り返った。


「サウードを命懸けで守るヨシノの姿に、僕は嫉妬で気が狂いそうだったよ」


 かすかに震える唇――。無理やりに捩じあげられて作られた笑みは、ぞっとするような深い憂いに満ちている。


「アスカさんの代わりになれるのは僕だ、と思っていたのに。きみは、アスカさんの作ったサウードや兵士達の映像のこと、知っているよね? 優しいアスカさんが血を吐きながら、ヨシノを守るために闘っていた映像だよ」


 胸に巣食っていたどす黒い心情を一気に吐露するアレンに、フレデリックもまた真剣な表情で頷いている。


「ヨシノは、あれを作って動かしているのは、サラだと思っていたんだ」


 美しく整った眉を歪めて、アレンはますます陰鬱な声音で告白し続けた。


「ヨシノのセキュリティを破れるのは彼女しかいない。ヨシノは、今までアスカさんだけを見て、アスカさんだけを守っていたのに――。ヨシノのためにずっと盾になっていたアスカさんに気づかないなんて! ヨシノの一番がアスカさんだから、僕は我慢できていたのに。家族だから敵わないって諦めることができたのに! ヨシノにとって、僕の存在価値なんて、もう何も残ってないじゃないか!」


「彼にとって、きみは誰の身代わりでもない。きみは、きみだよ、アレン」


 声を荒らげ、ぎりっと歯を食い縛るアレンを落ちつかせようと、フレデリックはその両肩に手を置いてぐっと力をこめた。


「僕は、ヨシノがどれほどきみを大切に思っているか、知っているつもりだよ」

「嘘だ。ヨシノは僕のことなんかこれっぽちも思ってない」

「アレン、本当だよ」

「嘘だ」


 どうしてきみは、自分の思いを口にして伝えないの……。たとえ、アレンの望む形でないにしても、きみは確かにアレンを愛しているのに。


 フレデリックはアレンをかき抱いて、その背を慰めるように摩ってやった。


「僕は、彼にノートを託されたんだよ。きみのことが書き綴ってあるんだ。きみが好きなもの。好きなこと。きみの生い立ち。ヨシノがずっと見守ってきたきみの姿が記されてあった。彼は本当に、ずっと、きみのことを見守っていたんだよ。きみが知らない間もずっと――。きみはそれを解っているからこそ、彼を想い、追い続けているんだろう? 信じ続けることは苦しいことだよ。もしきみが辛くて我慢できないのなら、彼を追い続けるのを止めればいい。そうしたところで、ヨシノはきみを見捨てたりしない」


 腕の中のアレンは、フレデリックに縋ったまま何も答えない。


「きみがどう考え、どう行動しようと、ヨシノはヨシノだ。きみはもう、充分に解っているよね」


 わずかにアレンが頷いたように、フレデリックには感じられた。


「きみがきみであるように。これだけは信じて、アレン。きみがきみらしくあることを、いつだってヨシノは願ってる」




 フレデリックはアレンの震える細い背中を抱きしめ、じっと待ち続けた。彼が泣き止み、誇り高くうなじを伸ばして、にっこりと微笑むのを。


 アレンの選ぶ道はたった一つしかないことを、彼もまた、充分過ぎるほど知っていたのだ。





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