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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
589/805

  歪み8 

 明るすぎる暖色の灯に照らされた回廊が、はてしなく伸びていた。その大理石タイルの敷き詰められた右手には中庭が、左手には広い水路が流れている。夜を映すその水面に、リズミカルな美しいアーチの連なりが逆向きに揺らいでいる。寝つけないまま部屋を出たアレンは、さらさらとしたせせらぎに耳を傾けながら、この一見終わりのない夢のような空間をそぞろ歩いていた。


 だが彼は、林立する柱の陰に佇んでいる人影を見とがめて立ち止まった。兄だった。こんな夜中だというのに、アレンと同じようにひとり外にいる。物思いに耽っておられるのなら邪魔してはいけない、とアレンはそのまま進むことを躊躇して踵を返しかけた。その背中を、ヘンリーが呼び止める。


「眠れないの?」


 声をかけられたことに安堵して、アレンは柱にもたれて煙草を吸っていた彼に歩みよった。


「いろいろ考えてしまって――」


 アレンは物憂げに微笑み、吐息を漏らした。ヘンリーは、返答を軽く頷くだけに留めて紫煙を燻らせている。


「――ヨシノが、いつも僕の頭を撫でるんです。小さな子どもにするみたいに……。いつまでたっても僕は、頼りない、子どもみたいだ」


 同じ太い柱に背をあずけながら、けれどそれぞれ別方向に視線を向けたまま、独り言のように、ため息のように、アレンの胸中が零れでる。それをヘンリーは、ふっと笑みを漏らして受けとめた。


「それはそうだろう」


 アレンが自己嫌悪からつっと顔を伏せたところを、吉野がしていたように、ヘンリーもまたくしゃりと撫でてやる。アレンはちらと兄を見あげて、小さく頭を振った。


「――僕は今まで、サウードのあんな一面を見たことがなかったんです。あんなふうに、誰かに甘えるサウードなんて。でもそんなサウードも、受けとめるヨシノも、僕には対等に見えた。僕に対する子ども扱いとは、まるで違っていた」

「殿下とお前では、背負っているものの重さが違う。扱いに差がでて当然だよ」


 ヘンリーは穏やかな口調で応えていた。同じくらい穏やかな瞳で、弟を、まだ自分が何者であるかも解っていない、マイナスからスタートしてようやくここまで、自分の傍らまで這いあがってきた、弟の姿を見つめて――。


 もうアレンにはかつてのような、中性的な少女にも見える面差しはない。それでもいまだに天使と形容されるのは、性別の曖昧さからではなく、その独特の雰囲気、およそ人とは思えない生臭さのなさ、周囲の空気さえ浄化してしまいそうな清涼な透明度に起因する。


 自分の弱味も、強味さえも省みることなく、無私に吉野を追い続けてきたゆえなのだろうか?

 この子を思い煩わせるのは、常にたった一人の人間だというのに――。



 苦笑を浮かべて煙草を口に運ぶヘンリーに、アレンはすがるような視線で問いかけていた。


「僕はサウードを、ヨシノと同じとても強い人だと思っていました。ヨシノと対等に語りあえ、堂々とともに歩んでいける特別に秀でた自立した人だと。でもそうじゃなかった。彼もまた、その身にかかる重責に押し潰されそうになりながら、恐る恐る、一歩、一歩、容赦ない現実のうえに足を踏みだしていた。震えながら――。不安に怯えながら――」


 言葉を切って、一瞬の迷いの後、アレンは燻り続けていた疑念を、兄に打ち明けたのだった。


「こんな僕でも、サウードのように在ることはできるでしょうか? 恐怖や不安を殺せないまでも、自分の足で踏みだすことが――」


 吉野に手を引かれて歩むのではなく……。


「ヨシノの横で肩を並べるために?」

「背中を追うのではなく、ともに」

「きみがそれを、強く望み続けるのであれば、ね」


 決然とした弟の瞳を優しく見つめかえし、ヘンリーはふわりと微笑んでいた。






「きみが本来の居るべき場所に戻りたいのであれば、僕に遠慮することなんてない。きみは、きみの心のままに。――僕はきみがいなくても、きみの描いた強い王を演じてみせる。僕のためにここに残らずとも、僕は――、」

「ヘンリーに何か言われた?」


 心に溜めていた戸惑いを一気に吐きだしたサウードを、吉野は口許にかすかな苦笑を浮かべながら、その言葉の途中で遮っていた。


 夜もふけたというのに、この部屋の灯りが落ちることはない。壁に並ぶいくつものディスプレイ画面では、株式や為替のチャートが目まぐるしく赤や青の折れ線グラフを刻んでいる。吉野の目はそれらの画面を追い、サウードには向けられないままだった。そんな彼から目を逸らし、サウードは唇を噛んで首を横に振る。吉野が彼を見てはいないのにかかわらずだ。吉野は、そんな彼の挙動も、心中も、察しているかのように言葉を継いだ。


「サウード、俺がここに残るのは俺の意志だよ。飛鳥のこと、俺の家族のことはな、俺が別に傍にいなくったって心配いらないんだ。でもお前も、この国も、俺にとっては、よちよち歩きの赤ん坊みたいなもんなんだよ。まだ目が離せないんだ。もう少し見極めたいんだよ」


「でも、きみは――。きみの選んだ王は、僕ではない……」

「そうだな。お前は俺の王じゃない。この国の王だ。お前は俺のために生きてるわけじゃないものな」


 眉根を寄せ、首を横に振り続けるサウードを振りかえり、吉野はにっと笑みを向ける。


「あいつを気遣う必要はないよ。あいつは俺なしでちゃんと進んでる。逆に俺がいたんじゃ駄目なんだよ」


 サウードは、ふっと哀し気な笑みを浮かべた。


「きみはまるで砂漠の蜃気楼だ。甘美な水を湛えた泉を映しながら、決してたどり着くことはできない。永遠に追いかけ、夢見続けるしかない常世のようだよ」

「蜃気楼って奴はさ、元があるから現れるんだ。無から生まれたものじゃないよ」


 吉野はくすくす笑った。


 見つけて欲しいの? 目前に現れる蜃気楼ではなく、どこかにあるはずの自分自身を――。


 そう訊ねたかったが、サウードは軽く頭を振り、そのまま言葉を呑みこんだ。訊ねられることを彼は望むまい。それに、望まれている相手は自分ではないことを彼は知っていた。

 吉野と自分との関係は契約に過ぎないのだ。結んだ約束が果たされれば、彼は躊躇なくこの地を去るだろう。

 彼がここに残るのは、いまだ契約は継続中だからにすぎないのだ。そこに一片の情も挟まれてはいないことを再確認したサウードは、小さく息を継いだ。


「ならば、僕はきみの予言を一つ一つ実現していこう。きみが、さらにその先を見通せるように」

「おい、予言じゃない。予測だよ。単純な、」

「確率解析だったね?」


 漆黒の夜の瞳を輝かせて艶やかな笑みを浮かべたサウードに、吉野はにっと笑いかえした。


「そうだよ。秩序ある美しい世界だ」





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