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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
588/805

  歪み7

 延々と飽くことなく続いているこの道路は、すでに王宮の敷地内に入っているという。リムジンの車窓から流れる景色は、欧州風の外灯の立ち並ぶ鮮やかな緑の芝に縁どられている。その上を孔雀までもが優雅に散歩している。広い庭園に植えられた樹々が、幹の先端から扇状の葉が広がるシュロでなければ、ここが砂漠の中に造られた王都であることを忘れてしまいそうだ。


 そんな錯覚にとらわれながら、アレンは澄んだ青紫の空の瞳を不安そうに陰らせて、膝の上で拳を握りしめている。


「ヨシノは僕を見て、また逃げだすんじゃないだろうか?」

 サウードが、いつもの静かな面持ちのまま首を傾げてみせる。

「ヨシノはきみを見て逃げだしたことなんてないよ」

「だって――」

 ふくれっ面をするアレンに、サウードのふわりと穏やかな笑みが向けられる。  

「彼は彼の理念で動くだけだ。きみも、僕も、その一部であって決して中心になることはない」


 冷ややかささえ感じられるその言葉に、アレンは苦笑し視線を落とした。


 常に自分の中心にいる吉野にとって、自分の存在はいったいどれ程のものなのか――。


 サウードの言う通り、自分という人間が彼の行動に変更を加えさせるだけのものになり得るはずがない。

 それは納得済みであったはずなのに。彼の命が危険に晒されている現状の中で、心配で擦り減っていくばかりの自分に疲れ、あまりの理不尽さに視界が狭くなってしまっているのだ。その事実にようやくアレンは気がついた。


 今度こそ逢えるんだ。本当に……。


 吉野が自分から逃げているのではなく、アレン自身が、追いつけないほど目まぐるしく変化していく彼に逢うのが怖くて、逃げだしたいのかも知れない。


 今度はそんな不安がアレンの胸をよぎっていた。こんなにもざわざわと落ち着かない自分とは違い、傍らのサウードは、表情の読めない面差しで泰然と前方を眺めているというのに。


 彼のように堂々としていなければ――。


 いまだ敵も味方も把握しきれず、統制が取れているとは言い切れない不安定な王宮に戻り、官僚を一新して新しい時代を築いていこうとしている皇太子サウードの足を、自分は決して引っ張るような真似をしてはならないのだ、と、ともすれば吉野一人に占められてしまいそうになる弱い心を叱咤して、アレンは深く息を継ぎ、その沈みがちな表情を引きしめた。



 リムジンはいつしか巨大な門をくぐり、白亜の宮殿の前に停車していた。大理石で埋められた前庭で感じたデジャヴ感に、アレンは一瞬戸惑いを覚えていた。だがやがて、ここがインターネットの映像で見た、戦車で埋め尽くされていた場所だと悟る。


 アサルトライフルを抱えた衛兵が立ち並ぶ中、サウードは出迎えた白いトーブの上に薄く透ける黒いベシュトを羽織った年嵩の重鎮らしき連中と、にこやかに言葉を交わしている。アレンもまた周囲に集まるトーブ姿の男たちと儀礼的な握手を繰り返した。



 いくつもの白大理石の柱のそびえ立つ広い回廊を通りぬける途中で、サウードはアレンの耳許に口を寄せて囁いた。


「きみ、握手をするの平気になったんだね。驚いたよ」

「もう我儘の通る年齢でもないしね。でも、きみに言われるまで忘れていた」


 アレンはにっこりと微笑み返した。サウードは目を細めて軽く頷く。




 やがて全面に金色に輝く細やかな草花模様の真鍮細工が施された扉の前で、サウードは立ち止まった。つき従っていた連中にいくつかの言葉をなげかけると、彼らは頷きイスハークひとりを残して踵を返した。


 サウードは、自ら扉を押し開く。





「ヨシノ!」


 同時にサウードは、この広々とした部屋の中央に置かれた小さなテーブルにいる吉野に向かって駆けだしていた。


 飛びついてくる彼の躰を、立ちあがった吉野が受け止めて抱き締めている。


「僕は、ちゃんとやれていただろうか?」


 くぐもった声が漏れ聞こえた。


「立派だった。皇太子として、お前は立派に責務を果たしてたよ」


 懐かしい吉野の柔らかな声がアレンの耳にも届いていた。かすかに震えているサウードの背中を、長い指が宥めるように叩いている音も――。


 アレンは呆然とその様子を眺めていた。だがやがて、テーブルの反対側に立つ兄に視線を移した。ヘンリーはただ静かにその場に佇み、そんな彼らの様子を眺めていた。けれどすぐに自分に注がれるアレンの視線に気づくと、優しげな、いたわるような微笑を浮かべた。


 サウードの呼吸がゆっくりと落ちついてくると、吉野はその腕をほどき、自分と同じ白いトーブをまとう彼の肩にキスを落とした。


「お帰り、サウード。お前の国へ」

「ありがとう、ヨシノ」


 サウードはぴしっと背筋を伸ばすと、ゆっくりとアレンを振り返り、いつも通りの鷹揚な笑みを向けた。



「よう、お前、よくこんな所まできてくれたな、ありがとう」


 その無邪気な笑顔に、アレンは強張る頬を無理に引きあげるように口角をあげ笑みを作る。醜い自分に泣きだしたい想いを、必死に堪えながら。


「サウードと、――きみのために、少しでも役立てるのなら……」


 掠れる小さな声が、消え入りそうに口から漏れていた。


 アレンは瞼を伏せ、床に敷かれた緑色の絨毯に織りこまれた花々をぼんやりと見つめた。花弁の一枚一枚が、ペイズリーというよりも鳥の羽みたいだ、と本当にどうでもいいことばかりが、脳裏に浮かんでいた。


 と、ふわりと頭にのせられた温かな感触に、アレンの肩がぴくりと痙攣する。だが彼には、顔をあげる勇気など湧かなかった。


「どうした? 元気がないな。もう暑さにやられちまったのか?」


 優しい声音にも、歯を食い縛って首を横に振るだけで精一杯だった。


「疲れたんなら部屋で休んどけよ」


 ぽん、と肩を叩かれ離れていく気配に、反射的に顔が跳ねあがる。


 くすくす笑う吉野が、腕を伸ばして、くしゃくしゃともう一度頭を撫でていた。


「もう! 子どもじゃないんだからね!」


 唇を尖らせて、ようやく花のように鮮やかな笑みを咲かせたアレンの頭をぽんと叩いて、吉野はくるりと背中を向けた。


「さぁヘンリー、始めてくれ」


 驚いて目を見開いているアレンを振り返り、吉野は顎をしゃくった。


「ほら、お前も座れよ。役者が揃ったところで、これから戦略会議なんだからさ」


 にっ、と片唇を跳ねあげて笑うあの懐かしい笑顔――。


 アレンは眩暈に似た不安と、それを上回る心の奥底から湧きあがってくる喜悦に、ぞくりと身を震わせずにはいられなかった。







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