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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
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  歪み6

「ヨシノは?」


 うっかりうたた寝してしまっていたらしい。目を開けたヘンリーは、空調で揺れる生成りの天井をぼんやりと見遣りながら、近くにいるはずのウィリアムに訊ねていた。


「サハイヤ地区の視察に向かわれました」

「なら、なぜお前がここにいるんだ?」


 眉を寄せて髪をかきあげ、半身を起こした。向かいのソファーでは、ウィリアムが手元のパソコンから顔をあげたところだった。


「王室の近衛が彼の護衛についています」

「腕は立つ? 信用できるの?」

「アリー・ファイサル・バッティです」

「ああ、彼か――。あの、パリのテロの時の」


 ふぅっと重く吐息を漏らして、ヘンリーは不機嫌そうに顔を歪めている。


 ウィリアムはおもむろに立ちあがり、いったん部屋をでて、またすぐに真鍮のポットとカップを手に戻ってきた。静まりかえっている室内には、コポコポとコーヒーの注がれる音だけがむやみに響いている。

 窓から差しこむ陽射しが、張りだしたデッキを蔽う(ひさし)で緩く遮られていた。その影が長く、濃く、部屋の内側に伸びている。じきに日が暮れるのだろう。

 時間感覚のずれに戸惑い、気怠げに額を押さえていたヘンリーだが、香りたつコーヒーにようやく意識を呼び覚まされたのか、くすくすと笑いだして傍らの従者を見上げる。



「この国にいると、どうにも僕の常識では物事は運ばない、ってことを思い知らされるよ。あの子はこんな所で日々すごしているなんてね。驚くことばかりだ」

「何かお気持ちを動かされるようなことがございましたか?」


 淡々とした従者の問いに、ヘンリーはどこか自嘲的な笑みで応えた。そして優雅にコーヒーカップを口許に運んで一服した後で、吐息を交えて呟く。


「昨日はヨシノの言うことに腹もたったんだけどね。よくよく考えてみると、どうも違うようだと気づいたよ」


 澄んだセレストブルーをウィリアムに向け、ヘンリーは確認するようにじっとその瞳の奥を覗きこむ。


「サハイヤ開発区、要するに、開発によって雇用は増やすことはできたけれど、利益はアブド大臣、前王一族に握られて国庫は潤わない状態だったってことなんだろ? おまけに、大臣は自らあの地区を破壊することで、外資系参画企業のCⅮSの価格を吊りあげて、不当な利益まで享受していた。そういうことだね?」

「その通りです」

「よくもまぁ、自分の国を、そこまで食い物にできるものだよ」


 呆れたように嗤う主人に、ウィリアムはただ静かに頷いてみせる。


「それで、あの子がやろうとしているのは?」


 空になったカップに二杯目を継ぎ足し、ウィリアムは姿勢を正した。


「まずは、常識では潰れるはずがないと思われている国営企業『アッシャムス』を破綻させます。この会社の株式51%の所有者はアブドではなく財務大臣ですから。彼が財務大臣の職を解かれた今、所有権は財務省にあります」


「なるほどね、そういうカラクリか。それでヨシノは、大臣の解任を知って、慌ててCⅮSの買い戻しに動き出したアブドルアジーズの先回りをして、その邪魔をしているってことだね」


 吉野が一方的に他方を利用しているのではないのだ。食うか、食われるか――。サウード殿下のいう理想の国造りなど、夢のまた夢だ。



「あの殿下、まるでヘンリー六世だな」

 ふと呟いたヘンリーに、ウィリアムは不思議そうな視線を向けた。

「あの方ならば、王であるよりも羊飼いで在りたい、とでも言いだしそうじゃないか」



 戦乱の世に生まれながら戦争を厭い、平和を愛したランカスター朝最後のイングランド王、ヘンリー六世。一時は対立するヨーク公に王位を譲り渡そうとしたところまでが似ているではないか。だがその平和主義ゆえに事態はさらなる混乱を増し、王は精神を病み、やがては非業の死を遂げた。


 サウード殿下も、決して、自ら望んで玉座を欲しがる方ではないだろうに。


 ――頭の切れる王はいらない。


 ならば、吉野はサフォーク伯となって王を操ろうとするのか?


 それもまた違う気がする。あの殿下は……。


「稀有な方だな。――ヨシノは、僕がサウード殿下に似ていると言うんだ。どうしてだろうね? 考えてみたけれど判らなかったよ」

「ロマンチストで理想主義なところが――、と以前仰っていました」

「そう思う?」


 意外そうに眉根をあげる彼に、ウィリアムはにこやかな笑みでもって応えた。


「誉め言葉じゃないね、彼のことだから。僕は自分では現実主義者(リアリスト)のつもりだけどね」

「私もそう思います」


 じゃあなぜ? どこが? と、声にして問うこともなく、ヘンリーは物憂げに従者から視線を逸らした。


「ロマンチストというのは、前にも言われたことがあるような気がするな。その時も怪訝に思ったのだけどね――」


 赤金色に染まりゆく地平線を眺めながら、ヘンリーは呟いた。


「身内同士で争いたくない。王たるものが、国民に安寧を約束したいと願うことすら、(ロマン)だといわれるほどに、この地は過酷で、容赦ない、ということなのかな?」


 夕映えは、英国の緑のうえであろうと、この地の砂漠上であろうと、比べようがないほど美しいというのに――。


「僕は、形にできる夢を見ることができる恵まれた者、ということだね」


 だが、恵まれた者には、常に、その神の恩恵ゆえの多大な義務がつきまとうのだ。一人でも多くの人々に還元できる夢を示しつづけなければならない。それならば、彼らの心とその日々の生活を潤す夢を届けたい、とヘンリーは願い続けている。


 願わずにはいられないところが、彼の目からみた自分と殿下の共通点なのだろうか――。


 その夢を育てるための苗床である常闇、けして綺麗ごとだけでは済まされない現実こそが吉野なのだ、とそういわれているように思えて、ヘンリーは、背筋を正してそれ以上何も言わず、ただ、赤く映える落日を眺めていた。





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