歪み5
「全く、アブドの糞野郎、無茶苦茶しやがって!」
朝から悪態をついてパソコンを叩いている吉野を眺めながら、ヘンリーは優雅に紅茶を淹れている。
「そんなに被害は甚大なの?」
口にした内容の割りに、のんびりとした仕草で吉野の前にティーカップを置く。
「酷いもんだよ!」
視線は画面に据えたまま手を伸ばしカップを持ち上げたその様子を見て、ヘンリーはくすくすと笑い出した。
「今更だろう? それよりきみ、相変わらず食事だけは何処にいても疎かにしないんだね。パソコンを睨みながら、というのは少々行儀が悪いが」
むしろその行儀の悪さが彼らしいと、ほっとしている自分がいる。
ヘンリーに笑われている事など気にするふうもなく、吉野は朝食を矢継ぎ早に口に詰め込んでいる。
「今日ばかりは本当に時間がないんだ。アブドの野郎、想定以上に発電所や冷却システムを破壊していやがるからな」
「きみをおびき出すためだったのだろう? 想定内じゃなかったのかい?」
「想定内だけどさ」
ふっと吉野は目を眇めた。
「余り外資系に打撃を与え過ぎるのも、他に歪みが来るからさ」
「歪み?」
「ここで被った損失をどこかで補填しなきゃいけないだろ?」
「確かに。うちの損失額はもう試算出来ているの? サラに伝えておかないと」
「ああ、あいつにはもう言った。損失と相殺したら、利益はまぁ、大したことないけれどさ」
「利益? きみ、この開発区に投資した会社のCDSを買っているの?」
ヘンリーは不愉快そうに語気を強める。
この破壊と混乱に乗じた金儲けなど、余りにも下劣極まりない。王室内の統制を図るために、いったいどれだけの他者を巻き添えにすれば気が済むのか……。
だが、返って来たのは彼の思惑とは異なった予想外の言葉だった。
「アブドルアジーズが『アッシャムス』のCDSを売っているんだ。だから、買い捲ったよ」
皿に山盛りされたマナキシュ・ザタールを順に頬張りながら、吉野はやっと視線を上げた。
「『アッシャムス』は、国営だろう……」
「初めから潰す予定で設立した会社だよ」
事もなげに吉野は答えた。頬をもぐもぐと動かしながら。
更に訊ねようと口を開きかけ、食欲旺盛に食べている彼の元気な姿に、ヘンリーは問い掛けを引っ込め、苦笑を漏らした。
皆、この姿を見たらどれほど安心する事か……。
だが、眼前の厄介事を片付けるまで、彼はここを動こうとはしないのだろう……。
苦笑が、ため息に変わる。
『アッシャムス』は、アブド大臣の管理下の太陽光発電施設を運営する国営企業だ。現在国庫の大半を占める石油産業に代わり、次代を担う業種として鳴り物入りで設立されたのだ。後から投資や技術協力という形で参入して来た外国企業とは、立ち位置が違う。
その『アッシャムス』のCDSを買う、ということは、この会社が倒産の危機に瀕しているということだ。だが、他の参画企業に比べ、国営であるこの会社のCDSはそれほどの値上がりはしていないはず……。
二杯目の紅茶を流し込み、次のマナキシュを摘まみ上げながら、吉野は説明を続ける。
「国営だから潰れる訳がないって? 膨大な損失が出れば潰れるよ。会社なんだからさ。だからCDSが売れるんじゃないか」
「初めから潰すつもりだったって、どういう事?」
「この会社の株、アブドとアブドルアジーズ、それにアブドの親族が半数近く持っているんだ。だから一回潰して、民間に払い下げる」
「あの規模の発電施設を民間に? あてはあるのかい、まさか……」
露骨に顔をしかめたヘンリーを悪戯っ子のように見上げ、吉野はにっと口角を上げた。
「そのまさか。ルベリーニだよ。まぁ、払い下げるって言っても、それ相当数の株式は国で握らせてもらうけれどね」
ため息をついたヘンリーに、吉野は真面目な顔をして続ける。
「あんたが思っているほど、ルベリーニは拝金主義って訳じゃないよ。経営に関しては堅実だ。それにこの国でやっていくには、あいつらくらい肝の据わった奴らじゃないと無理だ」
「それが、きみがこの国から学んだ結論かい?」
「ある意味、そうだな。ここじゃ、王族だって、国なんか信じちゃいない。だからあいつらは蓄財に走るんだ。それでも駆逐される恐怖から逃れられない。だから今度は散財に走る。哀れなもんだよ」
淡々と語る吉野に、何と返すべきなのだろう?
要するに、この事業計画の初めからアブド大臣は捨て駒であった訳だ。彼を奔走させて集めたコネと資金で設備を造った。それを丸々国が取り上げ、自分の利益に変える。ルベリーニへの利益の提供だけではない。大規模な会社を円滑に運営させるために、ルベリーニの統率力を利用する為でもあるのか。
相変わらず、と言ってしまうには余りに用意周到な彼のやり口には、感心するよりも背筋を凍えさせるものがある。
そんなヘンリーの複雑な胸中を気に掛けたのか、吉野は少し食べるペースを落として、パソコンを叩く手を休めた。
「あんたはサウードを判断能力を欠いているって言うけどさ。俺から見ればあいつは理想的な王様だよ。王に必要なのは切れる頭じゃない。求心力と包容力だ。アブドみたいな切れる奴じゃ駄目なんだ。全てを自分で握りたがるからな」
「独裁政権に陥ってしまうと?」
「あいつがやろうとしたみたいにな」
「サウード殿下ならそうはならないと、きみは言うのだね?」
「今のところはね。先のことは判らないよ。人を育てるのは時間が掛かるんだ」
それまで帰って来ないつもりか?
胃を押さえて蹲る飛鳥の姿が脳裏を過る。
ヘンリーは何度目かのため息をついた。
「あんたとサウードは似ているよ」
「そんなふうに思った事はないな」
それ以前に、あの方は何を考えているのかが、理解出来ない。なぜ吉野を、こうも頭から信じ込んでしまえるのかも……。
吉野を信じる、という者は、サウード殿下にしろアレンにしろ、彼が毒であると解っていて、自ら進んであおっているようにさえ見える。
甘美な毒に支配され……。自らの意志も放棄して。
だがそれは、自分自身も同じなのかと、ヘンリーは正面に座る吉野を眺めた。
信じたい自分と、信じきれない自分がせめぎ合う。誰の中にもある揺らぎが、この子の中には見出せない。それが、信じきれない理由だと解ってはいるのだが……。
「ヨシノ、口にスパイスがついている」
マナキシュの山は、もう残すところあと数枚だ。
ピタパンに、オリーブオイルと、タイムやオレガノなどのハーブ、黒ゴマ、チアシードを合わせた香辛料ザタールをたっぷり塗り付けたマナキシュの強い香りは、彼の腹の中に納まってしまっている。異国の文化も、慣習も、悪習ですら、彼はこうやって取り込んで消化してしまえるのだ……。
「どこに行っても生きていけるな、きみは」
ヘンリーは、新しく紅茶を淹れ直しながら、呟いた。英国ブランドの紅茶を、英国製のティーセットに。これが自分と彼との差だと、内心苦笑しながら。
「そうでもないよ。食ってくれる奴がいないと、料理の腕が鈍る。……だから、これが落ち着いたら一旦帰るよ。今日、明日って訳にはいかないけど。そうだな、」
宙を眺めて目を細めると、ぱっと頬を緩めて吉野は屈託のない笑みを向けた。
「一か月後、ってところかな。その頃は、英国はもう秋だね」
CDS… クレジット・デフォルト・スワップ(英語: Credit default swap)とは、クレジット デリバティブ(信用リスクの移転を目的とするデリバティブ取引)の一種。倒産保険と呼ばれることが多い。取引先の倒産 に備える保険のようなもの。




