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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
577/805

  破壊4

 アブド・H・アル=マルズークは紺碧に輝くペルシア湾きっての美しい海岸を見下ろしていた。だがその絶景も眼中にないようで、苦虫を潰したような不機嫌な顔をしている。


 常には観光客で賑わう海沿いのリゾート地にあるこの高級ホテルも、この夏は戦闘地域とされているサハイヤ地区にほど近いため、泊り客は政府関係者のみで閑散としている。そのペントハウスで、アブドはこの非常時に何をするでもなくただ時をすごしているのだ。


 首都とサハイヤ地区以外の戒厳令はすでに解かれている。この国全体では、失敗に終わったクーデター前の平穏を取り戻しつつある。だがこの街は、いまだ動員された軍隊のほか道を行く者もおらず、ぴりぴりとした緊張を漂わせている。


 蟻一匹捕まえるために、この場に縛られ拘束されているのは自分の方ではないか、とアブドはふと苦笑する。


 サハイヤ地区の爆撃を始めてから、すでにいく日。 


 米国在住の彼の兄アブドルアジーズからは、状況を確認する電話が時差の考慮もなく日に何度も入る。彼はそれに真面目に受け答えするのさえ億劫で、対応は側近に任せている。


 聴きたい言葉は一つだけだ。



 英国への亡命を試みた国王とサウードの搭乗した飛行機を叩き落としてやった――。


 慌てふためいた英国は隠蔽工作に奔走している。事実をひた隠しにし、一般には民間航空機のテロ被害としか報道していない。王族が搭乗していたことなどは、当然のごとく伏せている。この時点で彼らの死亡を公表することは、沈静化している反乱軍やテロリストの活動を刺激し、追い風を吹かせることに繋がるからだ。それを防ぐため、という政治的な思惑もあってのことだろう。


 テロリストも反乱軍も、もとからアブドの蒔いた火種だ。今さら国王の死が着火剤になるなどと考えようもないものを――。


 亡命要請を受諾しながら失敗に終わった英国側の顔も立ててやらねば。



 くだらぬ駆け引きだと嘆息しつつ、アブドはその身に燻る憂いの種に思いを馳せて、渋面をさらに厳しく強張らせている。

 


 問題はそんな事よりも、その航空機に吉野は搭乗しなかったという事なのだ。あれが乗っていさえすれば、もっと容易く手に入ったものを。依然、あれの足取りは途絶えたままなのだ。


 だが、この開発区をテロ拠点と定めてからの、国王亡命要請だったのだ。最後にあれが目撃されたのも、このサハイヤ地区だった。国王とサウードを逃がし、あれは自分が手塩にかけて造りあげた発電施設を守るために戻ってくるに違いない、と信じてアブドはここで待ちかまえているのだ。


 サウードが死んだ事で、ショックを受けているのだろうか?



 

 アブドは肘掛椅子に深く身をもたせたまま、まるで年若い時分に恋人を待っていた時のような、甘やかで残忍な焦燥感に炙られながら吉報が届くのを待ちわびているのだ。何も手につかないほどに焦がれて。

 それ以外の連絡は一切入れるなと申し渡して、もういく日もこの部屋に籠っているのだ。この代わり映えのない、ただ青いだけの海を眺めながら――。





 目を閉じて思索に耽っている彼を包む静寂を、ノックの音が打ち破る。アブドは不機嫌そうに眉根を寄せる。


 何度も緊急以外はいちいち報告にくるなと告げてあるのに、守られた試しがないからだ。物事の重要度も己の頭で測れない能無しどもめ、と舌打ちしながらも、彼はしかたなく「入れ」と鷹揚に声をかける。


 ドアが開かれ、側近が緊張した面持ちで入室する。いつもと変わりないその様に一瞥をくれると、アブドは元のように目を閉じる。


「ヨシノ・トヅキの足取りがつかめました」


 やっと来たか!


 アブドはゆるりとほくそ笑み、直立不動でいる側近にはっきりと面を向ける。


「サハイヤ離宮だな?」


 確認するように問い質す。側近は肯定し、素早く詳細と後を追わせている旨を告げた。


「出立の準備を」


 役目を終えた彼をさがらせると、アブドは久しぶりに訪れた凪いだ気分で、もうじき自分のものになるこの国の透き通る宝石のような深みのある美しい海を、透かし彫りの入る白大理石のバルコニー越しに眺め、満足そうに笑みを浮かべる。




 アブドが吉野と最後に言葉を交わしたサハイヤ旧市街地にある離宮は、今は観光施設となり使用されていない古の宮殿だ。


 その王の謁見の間で、吉野はアブドにこう言ったのだった。


 ――あんたは王の器じゃない。


 小憎たらしいその声音がそっくりそのまま彼の内耳に蘇り、反響していた。


 その一言がなければ、サウード一人くらい生かしておいてやったものを。


 所詮はこまっしゃくれた小僧っ子にすぎないのだ、と、そのふてぶてしい顔を思いだし、彼の口許にはくつくつと笑いが零れでていた。



 今度こそ、首輪をつけ飼い慣らしてみせる。サウード亡き今、主を喪ったあれを使いこなせるのは私しかいないのだから――。



 これまでの無為な時間を取り戻さんとばかりに思考を張り巡らせながら、アブドは頭の中で未来を紡ぎ始めている。


 あの謁見の間で、私こそが王だと認めさせてみせる、と。


 自分を待つ吉野を決して逃さぬように、緻密な策を弄するために。





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