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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
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  脱出7

「何のためですか?」

 心を落ち着けようとしてか、サウードは深く息を吸いこんだ。そして、ひと呼吸おいてからヘンリーに訊ね返した。

「国境を越えたいのです。今現在、あなたの国は外国人の入国は禁止されているでしょう?」

「あなたは、ヨシノの居場所をご存知なのですか?」


 一瞬の動揺から冷静さを取り戻し、サウードは深い常闇に強い意志の力を垣間見させる瞳に力をこめてヘンリーに向ける。


「テロの拠点とされているサハイヤ地区ではないのですか」


 サウード保護の要請のあったちょうどその日、マシュリク国内で大規模テロを繰り広げてきたテロリストの活動拠点を掴んだ政府が、テロ組織壊滅を掲げて一斉攻勢をしかける旨を発表した。それから連日にわたって、海岸沿いの古都サハイヤに作られた大規模太陽光発電施設や、温室、工場が政府の爆撃に晒されている映像が世界中で放映されている。



「――ヨシノときみの夢が踏みにじられるのを、僕たちは英国から見ていたんだ」


 額から瞼を覆う濡れタオルの下から、そんな声が聞こえた。


「アレン、」

「僕は本当に不甲斐ないな。たどり着いただけで倒れてしまうなんて」


 額のタオルを取りさると、頭を逸らしてサウードを見つめるセレストブルーは、にっこりと笑みを湛えている。だが、肘をついて身体を起こした彼の面はいまだ蒼白だ。充分に回復できているようには見えなかった。


「無理をしないで。もう少し横になっていた方がいい」


 気遣うサウードに、アレンは頭を振った。


「寝てなんていられないよ。腑抜けいると兄においてけぼりを喰らってしまう」

「よく解っているじゃないか」

 口角をあげるアレンに、ヘンリーもまた笑顔で応じている。



 サウードは苦笑しながら、あっと思い出したように表情を変えると、すっと彼らから視線を逸らした。


「イスハーク」

 まるで壁の一部のように立っていた彼はすべてを心得ているようだ。テント内の小さなテーブルに置かれていた細長い包みを持ちあげて歩み寄ると、主人に手渡した。


「イスハーク、久しぶり。きみも変わりなくて良かった」


 アレンから零れる笑みに、イスハークは無表情のまま軽く頷き返す。


「ヨシノからきみにって」

 真紅のサテン生地に包まれたそれを、アレンは眉根をひそめて受けとる。

「彼がこれを手離すなんて――」

 彼は花弁のような唇をきゅっと噛んでいた。


「それは?」

 ヘンリーが訝しげに訊ねる。

「彼の龍笛でしょ?」

 アレンはサウードを同意を求めるように見つめる。サウードは頷いて、

「アスカに渡して欲しいと、言付(ことづ)かったんだ」と静かな口調で伝えた。


「見てもかまわない?」

 ヘンリーの手に渡された包が、さらりと解かれる。

「ああ、なるほど」

 その中にさらに強固なケースを見つけ、ヘンリーは納得したように頷いた。

「まさか彼が気圧も温度も過酷なこの地に、これを持参しているとは思わなかったよ。断熱、気圧・湿度調整ケースも、そろそろ限界にきているわけだね」


「まさか、彼、この笛のケアのために、僕だけここへよこしたのではないでしょうね……」


 憮然と呟やいたサウードに、アレンは思わずヘンリーと顔を見合わせた。そんなわけないじゃないか、と言い切れない自分たちがなんとも情のないように思えて――。アレンは口許を引きつらせ、「きみに彼の命を託したんだよ」と、慰めとも、本音ともつかない言葉を口にのせる。


「そうだね。早く連れださないと、あの子、息苦しくて堪らないだろうね、これなしでは」

 ヘンリーは、くすくすと可笑しそうに笑っている。

「その辺りの感覚は、どうも僕には解らないようです」

 サウードは残念そうにため息を漏らした。



「そういうわけだ。きみは連れては行かれないよ、アレン」

 柔らかな笑みを湛えたまま告げられた兄の言葉に、アレンはきっと瞳に力をこめて激しく首を振った。

「きみは殿下と一緒に行くんだ」

「嫌です」

「きみがそう言いだすのが解っていたから、彼は、彼の命ともいえるこの笛をきみに託したのだろう?」


 唇を戦慄かせて俯いたアレンの頭を、ヘンリーはくしゃりと撫でてやる。


「僕を信じろ」


 見上げたアレンの瞳には涙が滲んでいた。


「必ず、連れ戻すから」


「アスカさんの胃の穴がこれ以上酷くならないうちに……、」


 絞りだされたアレンの掠れた声に、ヘンリーは微笑して頷く。


「まったくだ。この笛だけ持って英国に帰るような真似をしたら、アスカまで卒倒しかねないよ」


「胃に穴って――」

「彼の兄とは面識はおありでしたか?」


 頷いたサウードに、ヘンリーは苦笑いを浮かべたまま、肩をすくめてみせた。


「困った弟だ。たった一人の兄に心配ばかりかけている」

「僕のためです」

「それだけじゃないでしょう。彼の行動の基準はアスカですよ。殿下、それでもあなたは、あの子を手元に置き続けますか?」

「たとえ利用されているのであっても、僕はかまわない。――彼は、僕がこれまで出逢ったなかでの最高の頭脳だもの。僕は、彼が、彼こそが僕の民を導いていくための道筋を示してくれると、信じている」


「揺るぎなく、――ですか」


 ヘンリーは眼前の、年若い皇太子をゆるりと見据える。


「この続きは僕が戻ってからにいたしましょうか。僕としても、そろそろ彼を返して頂きたいのでね。でもまずは、本人の意思を訊ねなくてはね」


 テントの入口に視線を滑らせ、ヘンリーは差しこむ白い砂の輝きにかすかに目を眇めながら、穏やかな口調でそう告げていた。





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