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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
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脱出

 国境沿いの小さな街の狭いホテルの一室で、吉野は膝に置いたパソコンを睨んで最終確認をおこなっている。頭上にある天蓋の木枠から垂れさがる白いオーガンジーのカーテンが、冷房の風でそよそよと揺れる。ベッドに腰かける吉野は、時々顔に当たるカーテンを鬱陶しげに避けている。


「ヨシノ、やはり僕は反対だ。きみ一人残していくなんて」


 すでに何度も話しあいその度に却下されてきた問題だった。サウードはここにきて再び、膝が触れ合うほどの距離にある簡素な椅子から身をのり出して、この話をむし返した。


「今俺がここを離れるわけにはいかないよ。あのイカレ野郎が何をしでかすか判らないからな。それに後もう少し、もう少しでカタがつくんだ」

「それなら僕もここに残る」

「言ったろう? 足手まといだ」


 パソコン画面からチラリと目線をあげた吉野に、唇を噛むサウードの悔しげな面が映る。吉野は頭を仰け反らせて、透けたカーテン越しに背御の壁際に立つウィリアムの賛同を求める。


「俺のことなら心配いらないよ。なぁ、ウィル」

「もちろんですとも」


 彼は心得たように柔らかく微笑んで頷いている。


 それでもまだ、何か言いたげな漆黒の瞳に、吉野はにかっと笑いかけた。


「あいつが来るからさ」

 サウードは怪訝そうに眉根をあげた。

「アレンがさ、ヘンリーと一緒に来るって。だからこれ、あいつに渡してくれ」と足下の鞄から細長いケースを取りだし、サウードの膝にのせる。

「命の次に大切な龍笛だからな。あいつに、飛鳥に渡すように言ってくれ」


 静かにそれだけ言付けると、吉野はウィリアムを振り返った。


「もういいだろ? それとも別の発信機を持っておこうか?」


 ウィリアムは苦笑して首を横に振る。


「かまいませんとも。お側を離れませんから」

「でも、今は少しだけ外してくれないか。十分、五分でいいからさ」


 吉野の真剣な視線に頷き返して、ウィリアムは部屋を出て後ろ手にドアを閉めた。



「俺を信じてるんだろ?」

 ノートパソコンをパタリと閉じて傍らに置くと、吉野は立ちあがってサウードに手を差し伸べた。その手を掴んでサウードはゆっくりと立ちあがった。


「僕はきみを疑ったことなど一度もない」

「なら、信じ続けろ」


 吉野はサウードを抱きしめて、その耳許で、一切の甘さのない乾いた声音で囁いた。


「それでも僕は、きみをどんな危険にも晒したくはないんだ。――もう充分だよ、ヨシノ。きみのおかげでこの国の財政は大幅に改善した。未来への見通しだって以前よりよほどマシだ。僕は王位に就けなくてもかまわない。彼に主筋が移ったとしても。僕たちの国がそれで発展していけるのなら、それで一向にかまわないんだ。僕は――、」

「あいつは王の器じゃない」


 息せき切って喋るサウードを遮って、吉野はその背を宥めるようにぽんぽんと叩く。


「アレンと一緒に待ってろ。必ず迎えにいくからさ」

「――危険な真似はしないと、約束してくれ」

 サウードの口から深いため息が漏れる。

「解ってるよ」


 サウードは口元を引き締めると、吉野の肩に自分の額を当てて両腕でその背を抱き締めていた。


「さぁ、時間だ」

 吉野の声に応えるようにノックの音が、次いでドアがカチャリと開く。

「イスハーク、頼んだぞ」


 吉野を離し、サウードはすっと頭をあげて背筋を伸ばした。だがその眼差しは伏せられたままだった。


「爺さんに言っておいてくれ。南仏であんまりハメを外すんじゃないぞって」


 明るく言い放ち白い歯をみせて笑う吉野に、サウードもようやく、くすりと口元を緩ませる。


「すべてが片づいても、あの方はきっとこの国に戻るよりもバカンスの継続を望まれるだろうね」


 夏場の日中は気温が五十度にもあがる国だ。例年の夏場、王族は皆欧州に避暑に出かけ国を留守にする者が多い。その大移動が始まる矢先のクーデターだった。この情報を掴んだ時点で、国王をフランスのド・パルデュー家に託して、TS立体映像でその所在を誤魔化し続けてきたのだ。

 そしてクーデターの勃発と同時に、反乱軍を鎮圧し終えた王宮で始まるであろうアブド大臣下の戒厳令とその統制に備えて、側近を海外に逃がし続けてきたのだ。

 それが今朝になって、「お前で最後だ」とサウードは吉野から出国を告げられたのだ。だが、吉野はここに残ると言う。自分だけ、この地を離れろと言う。

 それがなぜなのか、サウードには見当がついていた。解っているのに、「否」が言えなかった。



 出立を促すイスハークを目で制し、サウードはもう一度吉野の眼前に立った。


「ヨシノ、これだけは覚えておいて欲しい。――僕は、きみと行く道がたとえ血塗られた修羅の道であっても君の手を取ることを厭わない。だから、すべての責任は僕の元に」

「解っている。お前は王だからな」


 吉野はサウードと、そしてイスハークと、最後の別れの抱擁を交わした。すでに言うべきことは言い終えていた。


 そしてドアがパタンと閉じられると、ゆっくりと黒と白にくっきりと区切られた燦々とした陽光の降り注ぐ中庭を見おろす窓辺に移動して、一度だけ振り返り、この窓を見あげたサウード一行を、一人静かに見送った。




 だが吉野は彼らの姿が見えなくなるなり、ぎりりと歯ぎしりをして、

「アブド、あの糞野郎――、俺に宣戦布告したことを後悔させてやる」と瞳に怒りを滾らせた。

 そしてテラコッタの床に足音を響かせて部屋を横切ると、放りだされていたノートパソコンを押し開いていた。





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