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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
559/805

  攪乱2

 スイスの寄宿学校へ入学するために生まれ育った国を離れるサハルは、迎えを待つ間、冷房の効いた高層ホテルのフロアからぼんやりと眼下に広がる町並みを眺めていた。砂埃で白濁する空気の中に聳え立つ近代的なビル郡の遥か向こうには、黄色い霞のような砂漠が広がっている。


 昨夜から理由の判らないまま、側近たちが入れ替わり立ち替わり忙しそうに行きかっている。出立までこのフロアから出てはいけないという。

 だが、サハルにはそんなことは大した問題ではなかった。元よりどこにも出かける気などなかったのだから。後数時間しかない出国までに彼に逢えるかどうか、そればかりが気にかかっているのだ。彼女の十歳上の婚約者である異国の不思議な若者、杜月吉野に――。



「サハル姫」


 よく通る聴き慣れた声に彼女は満面の笑みで振り返った。もうこのまま逢えないのだと、諦めかけていたところだった。


 いくつもの柱の立ち並ぶ応接フロアの間をぬうようにして、待ち続けていた相手がやってくる。


「ヨシノ! 来てくれたの!」

「お別れを言いに参りました」


 走り寄った幼い少女の前に、彼女の婚約者は白いトーブを翻して、片膝を立てて跪く。


「私、お前も一緒にくればいいと思うの。お父さまにお願いして、大使館勤務にしてもらえばいいじゃない。そうすればヨシノは欧州に戻れるし、家族にも会えるじゃない。私、それを言おうと思ってお前を待っていたの」


 真剣に自分に訴えかける漆黒の瞳を見あげて、吉野はにこやかな笑みを返したが、首は横に振って言った。


「俺はまだ、この、あなたの国で為すべきことがあるんです。ご心配要りません。あなたのフランス語はとてもお上手ですよ。お友達もすぐにおできになりますとも」


 この一年間のフランス語の教師でもあった婚約者は、不安なサハルの胸の内を見透かしたように言い――。


「またすぐに逢える?」

「ええ、きっと」

「スイスに逢いに来てくれる?」

「それはお約束できません」


 サハルの気丈な顔付きがわずかに歪む。


「じゃあ、私、新年には必ず帰ってくるわ。一緒に新年の花火を見て。約束よ、ヨシノ」



 参加することは叶わないニューイヤーパーティーの夜、サハルはカウントダウンの花火をこの同じホテルから眺めていた。

 従姉妹たちと早々と寝かされ、けれど女の子同士で集まって寝室の窓から空を眺めていた。従姉妹達から顔を見たこともない婚約者や、自分の父親と変わらない年齢の婚約者の話を聴くたびに、この優しい鳶色の瞳の婚約者を充てがわれた自分は幸運だと思った。何の地位もない馬の骨だとか、異教徒だとか、散々悪口を言われもしたけれど――。

 本当は、みんな私が妬ましいのだと、この鳶色の瞳を思いだすたびに、サハルは思わずにはいられなかったのだ。


 冬の夜空に咲くあの鮮やかな大輪の花を眺める時、横に吉野がいてくれたらどんなに楽しいだろう――。



 サハルの懇願に、吉野は目を細めて優しい笑みを返した。


「冬にはきっと、この地に戻るよりもお友達とすごしたいと思われていますよ」

「そんなことない!」


 自分が、吉野よりも他を優先させるわけがないじゃない!


「他国で様々なことに触れ、いろんな経験をして立派なレディーになって下さい。あなたが大人になられる頃にはこの国もきっと変わっていますから」


 差しだされた手に、サハルは膨れっ面で右手を重ねる。その手を軽く握りさらりと離すと、吉野は立ちあがった。


「お元気で、黎明の姫君」




「サハル」


 父の呼び声に振り返り、サハルは真紅の絨毯の上を駆けだした。


「お父さま、私、やっぱりヨシノを連れていきたいの」


 約束をくれなかったヨシノに、サハルは腹が立って仕方がなかったのだ。自分に逆らうことが許せなかった。


「ヨシノをスイス勤務にして」


 彼女は寄宿学校に入るのだから、側近にして、というわけにはいかない。そのくらいの分別は彼女にだってつく。けれど同じ国内で勤務させるなら、いつでも逢えるはず――。



 だが、抱きついて訴えかける娘の頭を撫でながら、父は訝しげに眉をひそめた。


「ヨシノ? 今さら何を言いだすんだ。彼は、」

「ヨシノ、私と一緒にきて。命令よ!」


 振り返って甲高い声で叫んだ娘にアブドは唖然とし、次いで露骨に顔をしかめた。


「またか――」


「ヨシノ! ヨシノ!」


 つい今しがたまでそこにいた吉野の姿を探して、サハルは、広い応接フロアのそこかしこに置かれている真紅のソファーの間をきょろきょろと走り回る。高くそびえる白大理石の柱の後ろ、濃い緑の葉が放射状に広がる観葉植物の陰――。


「ヨシノ……」


 泣きだしそうな声で吉野を呼ぶ娘を、アブドは堪らず呼び戻した。


「サハル、来なさい。彼はここにはいない」



 愛娘を抱きあげ、その背をトントンと叩いて慰めながら、アブドはしっかりとした口調で告げた。だがそれはべそをかく娘にではなく、彼自身にでも言い聞かせているかのようだった。


「私の大切なお前の婿になる男だからな、必ず捕まえる」






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