蒼穹6
「代表!」
監督生執務室に急ぐアレンに背後から声がかかる。振り向いたアレンのいつも通りの相貌に、ほっとしたような笑みを浮かべたフィリップは言葉を続けた。彼はここまで走ってきたというのに息を乱している様子もない。
「卒業セレモニーの件で。先輩にブートニアを贈ってもかまわないでしょうか?」
「ブートニアは、」
「きみ、ここの伝統を知らないの?」
アレンの横からクリスが口を挟んだ。
伝統などというほどのものか! と、内心の舌打ちが聞こえてきそうな表情を一瞬フィリップは浮かべる。だがそれを愛想笑いに切り替えて、「もちろん知っています。ですから僕が庭師から花を預かって、それをアレンジしてお渡ししてもかまいませんか、とお尋ねしているんです」と、つんと顎を突きだしてクリスを一瞥する。そしてすぐにまた懇願の視線をアレンに向けている。
アレンはちょっと小首を傾げて迷う様子を見せてから、仕方ないな、と苦笑いして頷いた。
「でも、皆の前では受け取れないよ。四学年生を差し置くことになるからね」
「ありがとうございます!」
フィリップの顔が明るく輝いた。
「僕の分は?」
「――庭師に、」
「じゃ、僕もやはりそうするよ」
嫌そうに眉根を寄せた彼を諌めるように被さったアレンの声に、「分かりました! 一緒にお届けしますよ」とフィリップは不承不承頷く。
卒業セレモニーに、卒業生は下級生から贈られたブートニアを胸元に飾るのがこの学校の慣わしだ。だが監督生代表とカレッジ寮寮長だけは、学校のフェローガーデンに咲く白薔薇を用いる。それは、この学校の専属庭師のベドウィックが交配した新種の薔薇で、白い花弁に縁だけが緑がかった上品な薔薇だ。二年前のセレモニーに、吉野が当時の代表だったパトリック・ウェザーにその白薔薇を贈ったのが始まりだ。翌年の監督生代表と、寮長でパトリックの弟でもあったマイケル・ウェザーが示し合わせたように同じ薔薇を胸元につけた。それから誰が決めた訳でもないのに、監督生代表とカレッジ寮寮長とはこの薔薇を飾ることが暗黙の決め事のように言われるようになったのだ。
「創立祭のヨシノのストローハットのこと、誰かから聴いたのかな?」
フィリップが立ち去った後、アレンは苦笑混じりに呟いた。
「そうかもねぇ! あの子は何でもヨシノと張りあいたがるからね!」
クリスも呆れ顔で遠ざかる彼の背中を眺めている。そしてアレンと顔を見合わせ苦笑を漏らす。
あの杜月吉野と張りあっている、と皆に失笑されるほど、フィリップは吉野を意識してその後を追っているとしかみられない行動を取っている。その甲斐あってか、得意の言語学の論文が認められて来年度の銀ボタンは最上級生を差し置いて彼に決定している。
そして、吉野のいない今、アレンの一番近くにいるのは彼だ、と皆が思っているのだ。彼の思惑通りに――。
卒業セレモニー当日の午後、在校生に見送られて寮を出たアレンたち卒業生は、各々レセプション会場に向かっていた。胸元に朝の内に届けられたブートニアを飾って――。
会場となるクリケット場へは、いったん学校外へ出て街中の道を通っていく。それはこれまで幾度となく通い慣れた道でもあるのだ。
アレンはフレデリック、そしてクリスと並んで歩きながら、「この学校の生徒としてこの道を歩くのが、今日で最後だなんてね」と、感慨深い思いで辺りを見回している。
「そうだね、この街の道筋一本一本に僕たちの歴史が刻まれている。離れがたいよ」
「二人とも、もう感傷的になってるの! まだレセプションさえ始まっていないのに!」
クリスは呆れたふうに笑って両手を広げる。
「うわっ!」
その手がぴっと擦れるほど歩道に寄せて黒塗りの外車が横づけされた。とっさにフレデリックは傍らのアレンを背後に庇い、壁際に後退っていた。バラバラっと、いく人もの若い男たちが車から降りてきていた。
「フィリップ!」
大声で叫んだフレデリックの声に呼応するように、すでに何台もの車がその外車を取り囲んでいる。動揺する男たちの声高に交わされる声は、ぐるりと向けられた銃口に一瞬にして沈黙を強いられていた。
アラビア語――。
蒼白な面にきゅっと唇を噛みしめていたアレンの前に立ちはだかり彼を守っていたフレデリックの背中から、ふっと緊張が解けるのが判った。
「会場まで車でお送りします」
聴き慣れた声に、フレデリックが身体の位置をずらす。不審な男たちも、突如現れた黒づくめの男たちもすでにいない。
「ヨシノに何かあったの?」
「車に乗ってください。会場でヘンリー卿がお待ちです」
「ヨシノは無事なの?」
フィリップの腕を掴んで食ってかかっているアレンに、フィリップは拗ねたような視線を向けている。
「ご自身よりも彼のことがご心配ですか? あなたが狙われるのは、彼に手出しができないからだとは考えられませんか?」
「あ――、ありがとう、助けてくれて。フレッドも、クリスも――。大丈夫だった?」
急に正気を取り戻したように、アレンは友人たちに虚ろな視線を向けた。二人とも、血の気の引いた顔をわずかに動かして頷いている。
「さぁ、お急ぎください」
車の後部座席に腰を下ろしたアレンは、傍らのフィリップにちらりと目をやる。
この手際の良さ、対応の速さは――。
「ヨシノの指示だね? もしかしてこのブートニア、盗聴器が仕込んであるとか?」
フィリップは露骨に感情を見せまいとするように視線を伏せている。おまけにフレデリックまでがさり気なく顔を逸らしている。アレンは自分と同じく蒼白な顔で唇を引き締めているクリスと眼があった。
「平気だよ。僕は――、僕たちは、」
「ガストン家の、」
言いかけたアレンを首を振って遮ると、クリスは胸を張り気丈に口角を上げて笑みを作った。
「僕たちは、あの、ヨシノ・トヅキの親友なんだからね!」




