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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
553/805

  蒼穹4

 今回は無理だったけれど、七月には会社のイベントもあるから。だからきっと、卒業式には――。



 ヨシノは、来ない……。


 晴天に恵まれたエリオット校創立祭当日、野外でのランチタイムに申し訳なさそうに告げられたその言葉に、アレンは軽く吐息を漏らして呟いていた。


「ヨシノ、本当に帰ってきてくれるのかな……」


 ざわざわと明るく賑やかな談笑がさざ波のように流れている。そんな広々とした芝生の一角では、物憂い顔をつきあわせている彼らだけがこの場にそぐわない沈んだ空気に包まれていた。


「学年末試験の日程からして、絶対こっちにも寄ってくれると思っていたのにね! 終わるなり帰るなんて信じられないよ!」と、クリスはぷぅっと膨れっ面をして声を荒げている。

「本当に残念だね。サウードにしても、もうずいぶん会ってない気がするなぁ」

 フレデリックも頭上に広がる蒼穹からさらに遠く、異国の空を探しているような遠い目をして呟く。


「ごめんね、あいつもさ、今、いろいろ立て込んでいるみたいだから」


 飛鳥が苦笑気味に頭を下げる。


「彼が試験を放棄しなかっただけで、僕はほっとしています。それに、お忙しいのに、アスカさんに来て頂けたんだもの。嬉しいです。ありがとうございます」


 アレンは小さく頭を振って、にっこりと微笑み返す。さらりと揺れた金の髪が光を跳ねた。

 いつもの黒の燕尾服ではなく、白のラインの入った紺のジャケットと白のトラウザーズに、薄紫のシャツに紫のネクタイのボートの儀式のためのユニフォームは、彼の美貌をより一層際立たせている。


「あいつもね、見たかっただろうなって思うよ。試験中だっていうのにさ、あんな必死に作ってたんだもの」

「え?」

「そのストローハット、あいつの手作り。クリスのもだよ。気づかなかった? それプリザーブドフラワーなんだ。あいつ、毎日ちょっとづつ作ってたんだよ」


 白と薄紫を組みあわせた薔薇はアレンの瞳の色。ヘンリーの館に咲いている『悔恨』だ。吉野は、前々からこの日のために準備しており、メアリーが加工しておいた花を使ってストローハットを飾りつけたのだった。


 淡々と語る飛鳥に、アレンは目を見開いて傍らに置いたままだったボートの儀式用のストローハットを取りあげた。朝方寮に届けられたこれは、てっきり吉野が花屋に注文してくれたものだと思っていたのだ。


「そんな――。この花、川に撒き散らすんですよ! もったいなくてできない、そんなこと!」


 ボートの儀式では、終盤、国旗の下を通りすぎるおり、漕ぎ手が順番に細いボートの上に立ち上がり、被っていた帽子を脱いで飾りの生花を川面に揺り落とす。色鮮やかなとりどりの花々の流れる川を滑るように下っていくのが、この儀式のハイライトなのだ。


 涙目で訴えているアレンとは裏腹に、クリスは瞳を輝かせている。彼の帽子は上品な設えのアレンのものとは異なり、オレンジ色のガーベラをメインにした明るく元気の良いデザインだ。


「そう? 僕は嬉しいな! ヨシノも一緒に、ボートの儀式に参加している気分だよ!」

「うん。羨ましいな。僕も儀式に出れば良かった」


 フレデリックも関心したように目を丸めて帽子を眺めているのだ。


「今から花屋さんへ走って別の帽子を頼んでこようかな――」


 唇を尖らせているアレンの呟きを聞きとがめて、クリスは抗議するように指を突きだした。


「駄目、駄目! ボートの儀式はね、きっと、誰かが撮影して動画サイトに投稿するからね! 帽子がすり替わったりしたら、ヨシノのことだから絶対気づくよ!」

「だって――」

「そうだよ。きみに使ってもらえなかったって知ったら、あいつ、がっかりするよ」


 飛鳥にまで念を押すように言われ、アレンは拗ねて視線を落とす。


「すごく楽しそうに作っていたんだ。きみたちのこと、話してくれながらね」


 ふわりと肩にかけられた手に、アレンは視線を向けた。けれど、その手の温かさとは裏腹に飛鳥の瞳は暗く沈んでいるようだった。


 僕以上に、ここにヨシノがいないのが淋しいのは、飛鳥さんなんだ――。


 自分の子どもっぽい我儘が急に恥ずかしくなって、アレンは背筋を伸ばして座り直し、にっこりと微笑んだ。


「そうですね。ヨシノが見守ってくれている。彼の大好きだったテムズ川に、彼の花を捧げてきます」

「――まさか、あいつ、ここでも泳いでいたんじゃないだろうね? 川は危険だから泳ぐなよって、口を酸っぱくして言ってたのに!」


 みるみる表情を強張らせていく飛鳥に、アレンはぷっと吹きだした。


「どちらかというと、川より池でしたよ。彼がよく泳いでいたのは」

 笑いながら告げられたクリスの告白に、飛鳥はより一層顔をしかめている。

「あー、やっぱり! どうせあいつのことだから、どこでも裸になって飛び込んでたんだろ! よく途中で追いだされずに、この学校を卒業させてもらえたよ! 校長先生にお礼を言わなくちゃ!」


 ため息をつく飛鳥に、アレンもクリスも、フレデリックも、互いの顔を見合わせて微笑みあう。


 その吉野に多大な恩と借り――あるいは弱みと言った方が相応しいかもしれない――があるのは、校長の方なのだ。

 ヘンリーから吉野へと続く系譜で内部から蝕まれていたこの学校が、どれほど変わったことか。どれほど自分たちが生き易くなったことか。


 フレデリックは感慨深く思いながら、立ち上がった。


「アスカさん、ボートの儀式が始まるまで校内を案内しますよ。彼が好きだったフェローズの欅の樹や、薔薇園も見ていってください。それから、寮に、カレッジホールも」

「僕も一緒にまわりたかったな」

「僕も」

「後で話してあげるよ、監督生代表、寮長」


 残念そうに呟くアレンとクリスに、フレデリックは片目を瞑ってみせる。


「ボートの儀式、楽しみにしてるよ。僕も帰ったら、ヘンリーやデヴィたちに、きみたちや学校の話をたくさんしてあげたいんだ。だって、ここは彼らの母校でもあるんだものね」

「ええ、先輩方に恥じぬよう、精一杯勤めてきます」


 飛鳥の言葉に、三人とも胸を張って誇らしげに微笑んで言った。爽やかな風の走る高台の芝地から、広がるエリオットの街を背にして――。



 



 

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