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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
548/805

  蛹7

 アーネストの心配を余所に、飛鳥はすっかり明るく積極的に滞っていた作業に取り組む普段通りの生活に戻っていった。誰もがもう吉野のことには触れなかった。日々の雑務をこなす平穏な毎日が淡々と流れていく。



「少し情勢も落ち着いてきているのかな?」


 ヘンリーの書斎で黙々と書類に目を通していたアーネストが、執務机にいるヘンリーにふと思いだしたように声をかける。問われた彼は書類から面を上げ、軽く小首を傾げる。

「どうだろうね。どこの思惑だか知らないけれど、最近やたらとサウード殿下とアブド大臣の友好関係を強調した記事が多いのは確かだけどね」


 ただ事実を述べただけなのか、それとも彼特有の嫌味なのか測りかねて、アーネストは慎重に言葉を探す。下手なことを言うと、誘導されて間違った情報を植えつけられてしまうのではないかという疑念が、彼の思考にブレーキをかけるのだ。


 ヘンリー相手に、そんな疑いを持たなければならない日がくるなんて!


 手にしていた書類を苛立たしげにバサリとローテーブルに放りだし、アーネストはソファーから立ち上がって、ヘンリーの後部にある庭を見下ろす出窓に移る。内心歯噛みしながら話題を変える。



「ヨシノはいつ戻ってくるか聞いている?」

「五月後半。まだまだ先だよ」

「それまでこんな重苦しい気分のまますごさなきゃいけないのか――」

「ずいぶん心配性になったものだね、アスカ以上だ」


 人の気を知ってか知らずか、吐き捨てるように呟く彼をヘンリーは呑気にくすくすと笑いとばしている。


「そのアスカの気が知れないよ」

「彼は信じているからね、ヨシノのことを」


 ふっと憂いを帯びたセレストブルーの瞳に、アーネストは畳みかけるように訊ねた。


「解らないな。僕たちだって常に危険に晒されてきたじゃないか。父はデイブに一流の護衛をつけて充分過ぎるほど防衛策を取ってきた。それでも避けられなかった。――きみだってよく解っているじゃないか。それなのにどうして、いつまでも彼をあんな危険地域に置いておくんだい?」


 何度も繰り返された話題がまた蒸し返されている。ヘンリーは苦笑気味に、だがアーネストを労わるような視線で彼を見つめた。


「デイヴとヨシノが重なるかい? 心配要らないよ。ウィルだけじゃない、ヨシノには一流の護衛がついているよ。言ったろう? 彼、ルベリーニの金庫番でもあるのだからね。ルベリーニの威信にかけて、彼の身辺は守られるよ」


 ルベリーニ――。


 ここにきて彼の口にした、もう一つ頭痛の種でもある名前にアーネストは吐息を呑み込む。


 石油産出量では上位とはいえ、たかだかアラビア半島の小国にすぎないあの国の情勢を、世界の金融界が息を潜めて見守っているのだ。あの国のくしゃみ一つで為替が飛び跳ねかねない今の情勢を、ヘンリーはどう思っているのだろう――。


 アーネストはとうとう、観念したように肩の力を抜いて笑いだす。


「つまらない腹の探り合いはやめよう、ヘンリー」

「もとより僕にはそんなつもりはないよ」


 いけしゃあしゃあと微笑む彼を、アーネストは軽く睨んで苦笑する。


「あの子はあの国で何をやっているの?」

「誰もが知る通りのことさ」

「ヘンリー」


 真剣な視線を向けるアーネストに、ヘンリーは笑みを湛えたまま問いなおす。


「きみの方こそ。エドに何を頼まれたの? 英国情報部は僕から何を引き出したいの? 僕もきみと同じだよ、アーニー。僕たちの利益が相反しないことを祈っている」

「きみが? それって期待薄ってことかな?」


 アーネストは、唇の端を上げたまま挑発するようにくいっと眉尻を持ち上げた。






「あれだけ悩んで、結局、元とそう変わってないじゃん!」と、けたたましく笑いながら、デヴィッドは飛鳥の背中をバンッと叩いた。

 コンサバトリーに映しだされている修正に修正を加えたというイベント用映像は、飛鳥が体調を崩して休止する前と特に変わったようには見えなかったのだ。


「そう言わずに体験してみてよ」


 飛鳥は悪戯っ子のような瞳で笑っている。そろりと後ずさってデヴィッドから距離を取り、ソファーに座るサラの横に腰を据える。




 仄暗い洞窟に、ぽうっと苔が青く光を帯びた。


「つらら石に触ってみて」


 サラも楽しそうな声音でデヴィッドに誘いをかける。


 デヴィッドはくるりと首を捻って七色に色を変える洞窟内をきょろきょろと見渡しながら、天井から吊り下がるつらら石のひとつに手を伸ばす。


「うわっ、蛇!」


 飛び退いたデヴィッドの頭上を、つらら石の先端から伸びでた緑の蔓が鞭のようにうねうねとしなりながら空中を泳いでいる。


「残念、それはハズレだよ」


 ソファーの上に胡座を組んで投影用パソコンを操作している飛鳥が、くすくすと笑いながら視線をあげた。


「え?」

「ほら、早く道案内の妖精と剣を見つけるんだ! 早くしないと捕まってしまうよ!」


 触手のようにうねる緑の蔓は、いくつにも枝分かれして天井を覆いつつある。昏がりに仄かに発光する蔓にはいつの間にか蕾がつき、ぽん、ぽん、と白い房上に垂れ下がる小さな花が弾けるように開いている。


「へぇー、綺麗じゃん」


 デヴィッドがみとれていると、あっと言う間もなく、伸びてきた蔓の絡まり合ってできた籠の中に閉じ込められてしまっていた。


「えー! これ、どういうこと?」


 足を一歩踏みだすと、籠も動きに合わせてついてくるのだ。じたばたと腕を振り回したところで、デヴィッドを囲む光の檻は消えてくれない。


「だから言っただろ! 捕まるよって。前のバージョンはただの宝探しだったけど、今度のは制限時間と罰を設けているんだ!」


 よいしょっと腰を上げて歩み寄る飛鳥の手には、短剣が握られている。彼は白く輝くそれで勢いよく空を切った。と、緑の蔓はキラキラ輝く粒子に砕けて消えていった。


「チームを組んでね、宝探しと冒険を兼ねるんだ」


 どう? と眉根を持ち上げて頬笑む飛鳥を、デヴィッドはぽかんと見つめていた。だがその次の瞬間、彼は両手を広げて飛鳥の首許にぎゅっと抱きついていた。


「もう一回やる!」

「――うん、うん、何度でも」


 ほっとしたように小さく息を漏らし、飛鳥はデヴィッドの背中をぽん、ぽんと叩いていた。







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