蛹6
何事もなかったかのように、日常は繰り返されていく。
体調を崩した飛鳥は、熱こそすぐに下がったものの、いつも気怠そうな様子で部屋に籠ることが多くなった。一緒に食事することも減っていた。
どこか殺伐とした空気を拭いきれないまま、時間だけが刻々と流れていく。
「言っているうちに、ヨシノ、帰ってくるんじゃないの? もうじき学年末試験でしょ?」
居間のテレビでニュースを見ながら、デヴィッドが呟いた。アーネストはちらりと弟を見やり、次いでテレビに目を据える。
「そうだね」
画面に流れる国際ニュースは、得に取りたててこれといった気になるものもない。だが、アーネストは画面に視点を固定したままだ。
「彼が帰ってきたら、事が片づくまで出国させないようにするよ。本来、学生が本業なんだから」
「無理じゃないの? 今さらでしょ」
淡々としたデヴィッドの一言は無視して、アーネストは小さく溜息を漏らす。
「エドがね、行っているんだ。――かの国へさ」
「任務でってこと?」
眉をひそめ、声を殺して囁かれた問いに、アーネストは軽く唇の端を上げて応えた。
「ヘンリーには内緒だよ」
久しぶりに聞く懐かしい幼馴染の名に、デヴィッドの面には思わぬ郷愁が呼び起こされていた。だからアーネストはこの問題に神経質なほど目くじらを立てていたのか、と彼は内心至極納得する。
「ヘンリーは知っているんじゃないかな。彼のことだもの」
ここ数日いつも張り詰めていた感のある兄を、デヴィッドは改めて気遣うように見やる。アーネストは、どこか皮肉な笑みを湛えて視線を返していた。
「かもね。――それでも、僕としてはね、彼には関わって欲しくないんだよ」
「どういうこと? 国のすることに、彼は口出しも、手出しも、しやしないんじゃなかったの? それゃまぁ、協力もしないけどねぇ」
デヴィッドの投げやりな言い方にアーネストは眉をひそめて、嗜めるように弟を睨んだ。
「ただでさえヘンリーは国に協力的でないって、槍玉に上がっているんだ。ヨシノを庇うあまり国の思惑と対立するんじゃないか、僕は気が気じゃないよ。そこにエドまで絡んできたら――」
収拾がつかなくなる……。
デヴィッドはもう見てはいないテレビを消し、悩ましげに首を反らせて天井を見上げた。いつからか疎遠になっていたエドワードとヘンリーの間に挟まれ、頭を悩ませていたアーネストを想い、どう答えていいものか判断がつかなかったのだ。
二人とも、なぜ互いの間に溝が生まれてしまったのか決して口にしなかった。だがデヴィッドは、そこに杜月兄弟が絡んでいるらしい、と予測している。おそらくは飛鳥が――。
飛鳥も吉野も、自分たちにとって大切な友人であり、同じ目標に向かって進んでいる仲間でもある。その事実に偽りはない。けれどふとした事で、彼らとの間に膜を感じるのだ。薄い、透明の、普段は気にすることもない皮膜。互いに触れ合っているようでいて、実際はそうではない、決して破れることもなくなることもない膜だ。その存在に時おり気づくことがある、今回のように。
いつもと変わらない日常の中で、相手の顔がぼやけて見える。笑いあって雑談していても、その輪郭が明確に描けず捉えられなくなってしまう。一見単純そうに見えて捉えどころのない吉野にも、穏やかで優しい飛鳥にも、心の内を決して表にはださず、向かいあう相手を不安にさせてしまう何かがあるのだ。
そんな彼らを間に挟んで、ヘンリーとエドワードの間に何があったのか――。
デヴィッドは兄にさえ、面と向かって尋ねることができないでいる。
「――でも、エド達、情報部が出向くっていってもさぁ、ヨシノと対立するって決まった訳じゃないでしょ? ヨシノは――、あれだろ? 結局は外国人の助っ人アドバイザーにすぎない訳だしさぁ……」
言葉を探りながら喋るデヴィッドに、アーネストは厳しい表情のまま首を横に振る。
「テロリスト相手にそんな言い分は通用しないよ」
「え?」
「事態はもっと複雑に入り組んでいるんだ。僕たちが係わっていけるレベルの話じゃないんだ」
「どういう意味?」
ここまで口にしておきながら、アーネストは急に口を閉ざした。その視線は、階上のロートアイアンの手摺を眺めていた。
「アスカ、具合はどう?」
振り仰いだデヴィッドは、手摺からこちらを見下ろしている飛鳥に、にこやかに声をかけた。
「うん。ありがとう、大分良くなったよ。サラは外かな?」
「コンサバトリーじゃないかな、庭ではないと思うよ」
「ん、ありがとう」
踵を返した飛鳥は、ふと思いなおしたように振り返る。
「デヴィ、後でコンサバトリーに来てくれる? イベント用の試作ができたんだ。今からサラに見てもらって細かい修正を入れるから。夕方には終わると思う。アーニーも。遅れてごめん、迷惑かけてしまって――」
きっちりと姿勢を正して深く頭を下げた飛鳥に、アーネストは軽く頷いてみせる。そして飛鳥が立ち去った後、ぽつりと呟いた。
「これだから彼は解らないんだ」
「いつものことじゃない。だいたいアスカちゃんは、ヨシノの事、心配しすぎ。確かにヨシノは奇抜なところもあるけどさぁ、無茶はしない子だよ。パリのテロの時だって――。いや、まぁ、ねぇ――、多少、無茶をするときもあるけど――、」
デヴィッドがともに異国の地ですごした、パリ、ローザンヌ、フェレンツェと思い返せば、吉野の行動は無茶ばかりだった。これでは飛鳥でなくたって心配して当然だ。
憂いの影の取れない兄をなんとか宥めようと、デヴィッドは言葉を探している。だが記憶を探れば探るほど、話をややこしくしてしまいそうなネタしか出てこないのだ。今さらながらの吉野の人物像に、デヴィッドにしても失笑を禁じえない。
「デイヴ、お前、なにか勘違いしていないかい? 確かに僕はヨシノの身辺の安全を心配しているよ。でもそれ以上に、英国が、多大な不利益を被る可能性の方を憂いているんだよ。ヘンリーはあの子のことを按ずるあまりに、その事実にまったく無頓着なんだよ。むしろ、彼自ら目を逸らしているのかもしれない――」
念を押すように首を傾げてアーネストは弟を一瞥すると、つい今し方まで飛鳥の立っていた階上を睨めつける。
「スイスフランの取引、僕はあの子のやり口を目の当たりに見ていたんだよ。あの子が、また金融を武器に仕掛けてくる可能性だけじゃない。殿下やアブド大臣を糸口として、今までしてきたことが情報部に知れでもしたら――。あの子、素直に英国の方針に従ってくれると思うかい?」
アーネストは言葉を切って、吐息をひとつ漏らした。
「僕たちは、今まさにヨシノ・トヅキという爆弾を抱えているんだ」




