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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
545/805

  蛹4

「嫌だなぁ、アーニー、なんのことを言ってるのか判らないよ」

 飛鳥はふわりと微笑んで、湯気の立つ紅茶をこくりと喉に流す。

「確かに、今は思うようにTSの作業は進んでないけど、それと吉野は関係ないよ」


 突風が、芝の青を波のようにざわめかせている。


「きみの言った通りだ。ひと雨来そうだね」

 大きく目を見開いて、飛鳥は空を仰いでいる。わずかの間に黒雲が湧きで、こうしている間にも空を覆い尽くさんと広がっている。



「ごまかさないで。きみはヨシノにTSの開発を頼まれているはずだ。あの子が、何もないのに突然帰ってくる訳がない」


 厳しい姿勢を崩さないアーネストに、飛鳥は困惑したように小首を傾げ、歪な笑みとともに応えている。


「きみは意外にあいつの事を解ってないんだね。あいつが、きみやヘンリーに何を話したのか、僕は知らない。でもあいつは、僕にだけは何も言わないよ。吉野が、僕を心配させるような事を(みずか)ら言うはずがないじゃないか」


 アーニーの眉尻がぴくりと上がる。


「知ってるの?」

「僕だって同じ失敗を何度も繰り返すほど愚かじゃないつもりだよ」


 それは、暗にパリでのテロ事件を指しているのだと察して、アーネストは奥歯を噛み締めずにはいられない。


 同じ失敗――。


 吉野に怪我を負わせたのは確かに自分たちの失態だ。あの時、飛鳥は誰をも責める事をしなかった。不可抗力だったのだから、と。けれど決して、それを許した訳ではなかったのだ。


 失態は失態。


 だから彼は、今度こそ自分自身で吉野を守ろうとしている。

 しかし、どうやって?


 飛鳥の底の知れないとろりとした琥珀のような瞳の中にはどんな感情も読み取ることができず、アーネストはギリリと歯噛みして息を継ぐ。


「きみは、僕たちを信用できないの?」

「信じてるよ。でも、吉野が今いるのはアラブで、きみもヘンリーも英国人だ。あいつと利害が一致しない可能性も想定してるだけだよ」


 ポツポツと音を立て、大粒の雨が降り始めた。


「戻ろう、濡れてしまう」


 飛鳥は地面に置かれたトレイを持ちあげ歩きだしている。振り返ることもなく。

 アーネストは激しく叩きつけてくる雨の中、飛鳥の姿が灰色に煙り館の中に消えるまで、その場に佇んだまま動かなかった。





 ヘンリーが帰宅した時、夕食の席に飛鳥の姿はなかった。


「アスカは?」

「雨に濡れて頭が痛いって」

「出かけていたの?」

「庭でね、僕が話しこんでしまったから。空模様が崩れてきていたのに」


 カチャカチャとカトラリーを操りながら、アーネストが感情のない声音で告げる。そんな彼に不自然さを感じながら、ヘンリーは立ち上がった。


「そういう事なら、先に見舞ってくるよ」


 軽く頷いただけで誰も何も言わなかった。どこか重苦しい空気がテーブルを覆っている訝しさに首を傾げながら、ヘンリーはキッチンにいるメアリーに声をかけ、飛鳥のためにジンジャーティーを頼んだ。






「どうぞ」

 ノックに呼応する声に、ヘンリーはドアを開けた。ベッドに横になっているかと思いきや、飛鳥はぼんやりと一人掛けのソファーに腰かけて、窓の外を眺めていた。

「日が延びたね、ヘンリー」


 一時の雨はすでに止み、まだほのかに明るさを残した緑に紫紺がゆるゆると被さってきている。


「夕食はいらないって? 食欲がないの? メアリーにお茶を淹れて貰ったのだけど」


 蓋を外してティーテーブルに置かれたマグカップからふわりと香った生姜の刺激に、飛鳥はほっこりと微笑んだ。


「ありがとう、ヘンリー」


 ゆっくりと少しずつお茶を啜る飛鳥に、ヘンリーはほっとしたように目許を緩め、向かいの席に腰を下ろす。


「何かあった? 今日は家の空気がぎくしゃくしているみたいだ」


 飛鳥は上目遣いにちらりとヘンリーに目をやる。


「ああ、僕のせいだ。行き詰っていて、TSの開発が止まっているから」

「何が問題なの?」


 ヘンリーの問いに、飛鳥は申し訳なさそうに微笑んで答えた。


「花とか星とか、きらきらしい世界がさ、何だか違うように思えてね。最初からやり直したいんだ」

「僕はあれで気に入っているよ。郷愁を呼び起こされる」

「やっぱりロマンチストだね、きみは」


 どこか羨ましそうに細められた飛鳥の目が、潤んだように光っている。ヘンリーは咎めるように眉をよせてすっと手を指し伸ばすと、飛鳥の額にかかる髪をかき上げた。


「ほら、熱が出ているようだよ」

「これをいただいたら寝るよ」


 マグカップを両手で捧げ持つようにしてみせ、飛鳥は子どものように微笑んだ。


「きみと吉野は似ているね」


 どこか嬉しそうな飛鳥の声音に、ヘンリーは苦笑する。そして、若干の間を置いてから応える。


「そう?」

「うん。過保護なところが」

「それはきみが、しょっちゅう熱を出したり、寝込んだりするからだよ」

「サラに対してもそうだろ?」


 ゆっくりとカップの中身を飲みきると、飛鳥はぐったりとソファーの背もたれに頭をもたせ掛けている。


「きみは、サラと自分自身とどっちが大事?」


 目を瞑り、独り言のように飛鳥は呟いた。


「サラのこと、すべてを捨ててもかまわないほど大切だ、って学生の頃に言ってただろ? 今でもまだそう思っている?」

「今は――、そんな自分勝手な一方通行の想いでは、自分だけでなく彼女をも傷つけてしまいかねない、ってことを理解しているよ。この世に生きているのは、僕たち二人だけではないのだからね」


 ヘンリーの返答に、飛鳥は薄らと笑みを浮かべた。


「きみは大人だね、ヘンリー」


 きみは――? 


 きみの世界には、いまだに吉野だけなのか、と目の前にいる飛鳥が酷く遠くに感じられてやるせない。

 窓の外では、日はとっくに落ちていた。月の出を待つ宵の昏さに溶けるような存在感の不確かな飛鳥の輪郭を、ヘンリーはただじっと眉根を寄せて見つめていた。






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