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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
544/805

  蛹3

 穏やかな日差しに空気も微睡む昼下がり。家にいる者たちはいつもの様にコンサバトリーに集まり日光浴もかねて、其々の為すべきことに取り組んでいる。だが、ガラスに囲まれたその空間は、どこか白々としてぎこちない空気が流れている。カサカサとアーネストが書類を繰る音。ノートパソコンを操るサラの叩く単調なキーボードの音。時おり芝生を駆けぬける突風が、眠気を誘うこの空間に引き込まれそうな意識に活を入れている。


「アスカは本当に不安定」

 長く続いたこの沈黙に耐えかねたのか、大きなライムグリーンの瞳をくりっと上げて、サラは不満げに唇を尖らせた。

「不安定なのはきみも同じ」


 デヴィッドは笑いながらティーカップ越しに、床の上にぺたりと座り込んでいるサラを眺める。そして、つい先日まで同じように床の上に座りくつろいでいた吉野を瞼裏に思い出していた。



 会社の資産運用は、いつの間にかこの二人の担当のようになっている。サラは、アーカシャーHDの。吉野はルベリーニ一族関連の。互いの運用先が対立しないように慎重に取り決めながら、協力し合っているらしい。だからおそらく、この家で一番吉野と密に接していたのはサラなのだ。大半を人工知能に任せているとはいえ、何が起こるか解らない国際情勢の中で、多額の資金を動かしているのだから。



「きみとヨシノって似てるよねぇ」

 デヴィッドは、嫌そうにひそめられたサラを形の良い眉を見て吹きだし、継いで声を立てて笑った。

「私、あんなに意地悪じゃないわ」

「うん、うん」

 子どもをあしらうようなその返答に、サラはますます不満そうだ。

「はい」

 おもむろに小皿にのったチョコレートを差しだされ、サラは怒った顔のままひとつ摘む。

「それでアスカちゃんは?」


 黙って指差された芝生の真ん中に、ごろりと寝転がる飛鳥がいる。ガラス越しの光が跳ね、新緑が萌える。


「煮詰まっているんだねぇ」



 吉野がいる間はあんなに張り切っていたのに……。


 それに彼女もだ。デヴィッドは横目で、今は寝転んでパソコンに向かうサラを眺めた。


 鳥かごから出ようとしない鳥と、巣に戻ること忘れてしまったような鳥。まるで正反対なのに鏡映しのように思えてしまうのは、この二人に共通する特殊な天才性のため?


「アスカちゃんは、いたって普通なのに」


 呟いたその声を耳聡く聞きつけ、サラが振り返る。


「どこが! もう、嫌になるくらい気まぐれで勝手! 我儘! あんな人、他に見たことない!」


 いや、いや、いや、きみらに比べたら全然マシだよぉ、彼はさぁ。


 心の中で呟きながら、デヴィッドは笑いを咬み殺す。


「どうしたの? 珍しく喧嘩でもしたの?」


 サラはぷんっとふくれっ面のままで応えた。


「また作り直すって言うの! 気に入らないからって!」

「童話シリーズ?」


 やっぱりね、とデヴィッドはおおよその見当はついていたので、微笑みを崩さず聞き返した。案の定、サラは大きく頷く。


「それなのに、アスカ、新しい案も出さないでシューティングゲームばかりやっているの!」

「シューティングゲーム?」


 意外な言葉に、デヴィッドは訝しさを抱えて兄を見た。会話に加わることもなく素知らぬ顔で書類を眺めていたアーネストが、厳しい表情で遠目に映る飛鳥を眺めている。


「ヨシノが滞在していた間、彼らは何をしていたの?」


 唐突に発せられたアーネストの問いかけに、サラは身体を起こし座り直す。


「イベント用のTSの手直し。ヨシノがいた間はすごく順調に進んでいたのよ!」



 他人の前では絶対に本音を晒さない。そんな飛鳥の気質を、もう何年も共に暮らしているアーネストも、デヴィッドもよく解っている。


「ヘンリーは、何時頃に帰ってくるのかな? 聞いてる?」


 だが続くアーネストの問いには、サラもデヴィッドも答えられずに首を振る。



「アスカと話してくる」


 書類を片付け、アーネストは立ちあがった。戸外へ続くガラス戸ではなく、ティールームのドアから出て行った。不思議そうに見送るサラの視線に気付き、デヴィッドが彼の行動を説明する。合理的に見えない行動がサラの感情を掻き乱すことを、彼はヘンリーから聴かされているのだ。


「アーニーは紅茶を淹れにいったんだよ。今日は陽気がいいからさ、アスカちゃんも喉が乾いてるんじゃないかな、てね」





 白い雲が流れる。

 空は青いのに、この国ではどこか灰色がかって見える。


「じきに降りだすよ」

 カチャカチャと軽い陶器の触れ合う音と共に現れたアーネストの落ち着いた声音に、飛鳥は身体を起こした。

「それなのに今からお茶?」

「そのくらいの時間はあるさ」


 腰を下ろしたアーネストの注ぎ入れた、湯気の立つ緩やかな曲線を描くティーカップを受け取り、飛鳥はその芳しい香りと、交じり合う芝の香を胸いっぱいに吸いこんだ。


「すごく贅沢だよね。僕たちは」


 揺れる液体に視線を落としたままの飛鳥を、アーネストは立てた膝に頬杖をついて眺めている。


「きみの心は砂漠に飛んでいるの?」


 飛鳥はアーネストにちらりと視線を向け、すぐに逸らすとティーカップを口許に運んだ。


「紅茶の色は砂漠に沈む太陽に似ている、って吉野が言ってた。夕陽を見ると紅茶が懐かしくなるって」

「なら、帰ってくればいいんだ」

「向こうに戻ったばかりだよ」


 苦笑する飛鳥に、アーネストは厳しい表情を向けている。


「きみはあの子を守るために、この国に連れてきたんだろ? なのになんで、今さらこんな危険の中に放置するんだ?」

「――あいつはもう僕の手を離れた大人だからだよ」


 飛鳥の静かな声音に、アーネストはかすかに眉を潜めた。


「じゃあ、あの子のために隠れて何を作っているの? 本来の仕事をほっぽりだして。あの子に何を頼まれた? 僕は許さないよ。それは僕たちの会社に対する背任行為だ」




 詰問するアーネストに、飛鳥も真っ直ぐに燃えるような視線を返していた。





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