蛹(さなぎ)
「きみはお酒を飲まないんだね?」
ヘンリーが今まさに注ぎ入れている金糸の束のような紅茶の流れを眺めながら、飛鳥は唐突に真面目な顔をして訊ねた。
「そんなことはないよ、一人の時は飲んでいる」
「大学の頃だって、パブに行ったりはしなかったじゃないか」
飛鳥は不思議そうにヘンリーを見つめた。
紅茶は確かに英国に根付いた文化だが、パブ巡りをしながら飲み明かすのもまた、この学生の街ケンブリッジに住んでいれば当然の伝統のように思える。けれどこのヘンリーの家では、食事の時ですらワイン一杯出されることはなかったし、彼らがビールやウイスキーを飲んでいる姿を見たことすらない。
「そんな暇、なかったから」
ふわりと微笑んだヘンリーに、飛鳥は納得したように苦笑する。
「ヨシノの帰りが遅いから心配?」
優雅にティーカップを口元に運びながら訊ねる彼に、飛鳥は渋い表情で首を振った。
「いいんだよ、あいつのことは。ハワード教授がご一緒らしいからね」
飛鳥が入学したての時には、酒を飲むな、とさんざん煩く文句を言っていた癖に、いざ自分が大学生になったら当然のように朝帰りする弟に、彼のため息は尽きることがないのだ。
「アレンが学校に戻った後で良かったよ」
「なぜ?」
どこか冷たく響くその疑問詞に、飛鳥は怪訝な瞳をヘンリーに向けた。
「なぜ、って、だってあの子……」
「ヨシノはあの子のものじゃないし、彼にはヨシノの行動を縛る権利なんて、これっぽっちもないじゃないか」
「でも――。可哀想じゃないか。彼はあんなにあいつのことを想ってくれてるのに」
心中の憂いをそのまま晒したような飛鳥の瞳を真っ直ぐに見つめ、ヘンリーはさらに冷めた調子の言葉を返した。
「アレンは男だよ。きみは男同士ってことに抵抗はないの? 仮にも、ヨシノはきみの大事な弟だろ?」
どこか責めるようなヘンリーの口調に、飛鳥はその鳶色の瞳を当惑で揺らし口籠もる。
「だって――、ずっと、あの子の一途な視線を追って、見てたんだ。報われて欲しいって、思うよ……」
「きみが見ていたのはアレンではなく、その視線の先じゃないの?」
追い討ちをかけるように被せられた言葉に飛鳥は押し黙る。
「きみは自分の代わりに、あの子にヨシノを縛る枷になって欲しい、と願っているだけだよ」
ヘンリーは言葉を切って、紅茶を一口飲んだ。
穏やかで静かな口調なのに、彼がとても怒っているように思えて、飛鳥には顔を上げてまともに彼を見つめる勇気は湧かなかった。もどかしさから、飛鳥もまたティーカップに指をかける。
「きみは恋を知らないから判らないんだ。あの子のヨシノへの想いは恋じゃない」
ヘンリーは、どこか憐れむような口調で言葉を継いだ。
「あれは恋愛じゃないよ」
念を押すように繰り返す。
飛鳥はきっ、と面を上げヘンリーを見据えた。
「好きなのに、恋い焦がれているのに恋愛じゃないって、意味が解らない」
「きみがヨシノを見る目も、あの子がヨシノを見る目も変わらないよ」
「僕は――、」
「恋している訳じゃないだろ?」
「馬鹿を言うなよ!」
腹立たし気に顔を歪めて声を荒げた飛鳥に、ヘンリーは畳みかけるように続けた。
「そういう事だよ。どんなに好きで、心を掻き乱されていようと、アレンはヨシノに欲情している訳じゃない。だから、どうしようもないんだよ。そういう対象として彼を見ることができないし、行為そのものを愛情の表現として認めることすら難しいだろうね。ヨシノ自身が、一番その事を理解している」
呆然と目を見開いている飛鳥に、ヘンリーは宥めるような優しい笑みを向けた。
「僕は、今のこの二人の距離が一番適切だと思っているよ」
深いため息が、飛鳥の口からついてでる。
「――それでも、僕は、彼の想いは恋だと思うよ」
「あの子は心が病気なんだ。そんな子を、きみはヨシノに背負わせたいの?」
「きみはどうしてそう昔からアレンに冷たいんだ?」
苦しげに顔を歪めた飛鳥に、ヘンリーはわずかに首を傾げた。
「きみは、どうしてそう、昔からヨシノに甘えるんだい?」
答えられない飛鳥から視線を逸らし、ヘンリーは空になっている飛鳥のカップに紅茶を注ぎ、次いで差し湯を足した。
「少し渋いかもしれないよ」
飛鳥は黙ったままカップを口元に運ぶ。ヘンリーは自分のカップにも紅茶を継ぎ足した。
「きみたちがストレートの方を好むから、僕もすっかりこの金色に慣れてしまった」
きみは、自分の好みを他人に合わせて変えたりはしない。
ただ習慣的に飲んでいたミルクティーよりも、何も加えない方が自分の好みに合うことに気付いただけだ。そう飛鳥には思えたけれど、今までの習慣に流されるのではなく、柔軟に自分の変化を受け入れていくのも彼らしく思えて、緊張を解いてかすかに微笑んだ。
「吉野は、あいつなりの誠意でもって彼に接している、そうきみは言ってくれてるんだね?」
頷いたヘンリーににっこりと笑みを返す。飛鳥は手元の一杯目よりも若干薄いカップの中の金色に視線を落とした。
ポットの底でどんどん濃さを増し、初めの頃の芳醇な香りを忘れ、やがてどうしようもなく苦味や渋みが出てしまう、この紅茶のようなあの子の想いを、中和させてあげられるこの差し湯のような兄がいるから――。
だからアレンは、自分の想いに溺れることもその渋さに顔をしかめることもなく、想いを抱えたまま、あんなふうに微笑んでいられるのだろうか。と、飛鳥はヘンリーの淹れてくれた紅茶を飲みながら、口内にわずかに残る渋みに唇を歪めた。
「彼はそれで幸せなの?」
「それは本人に訊かないとね」
ヘンリーもまた瞼を伏せたまま、残る紅茶を飲み干していた。




