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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
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  帰還8

 窓越しに広がる麗らかに輝く芝の緑と、桜色よりも新緑が勝る丘陵をアレンはぼんやりと眺めている。その額を吉野はポンッと、手にしたペンで叩いた。


「おい、ぼやっとするなよ」


 くいっ、とセレストブルーの大きな瞳を上目遣いに見開き、アレンは唇をすぼめる。


「きみがここにいる間、学校を休もうかな」

「馬鹿言うなよ。お前が学校に戻ったら俺は大学へ行くんだよ。元々そのために帰ってきたんだしさ」


 鼻の頭に皺を寄せてくしゃっと笑う吉野を見つめながら、アレンは心の中で、嘘つきと呟く。



 ジャックの葬儀に続く会食を終えた後のことだ。片付けも手伝うと言った吉野の申し出をアンは断った。吉野は心配そうに、「また逢いにくるよ」と告げていた。身内を亡くしたばかりの彼女を優しい吉野が気遣うのも、その言葉も至極当然だ。けれどその当たり前の一言が、棘のように胸に突き刺さってアレンの心を疼かせていたのだ。


 出会った頃はほんの子どもに過ぎなかった自分たちが、いつの間にか、ずっと大人だと思っていた彼女を軽々見下ろすほどに背丈も伸びていた。この二人が並んでいる姿は、とてもしっくりと馴染んで見えた。あのドイツ人の彼女よりも、よほど吉野にお似合いに見えた。彼女の燃えるような赤毛も、澄んだ真っ直ぐに吉野を見る眼差しもあの頃のまま――。


 僕たちは歳を取っているのに、彼女はまるで変わらないままで。


 まるで、吉野が成長するのを待っていたようだ、とアレンはきゅっと唇を噛んでいた。



「この問題、そんなに難しいか?」

「それほどでも。少しくたびれて集中力が切れただけだよ」


 眉を寄せる吉野に笑って頭を振った。これ以上呆れられないように、アレンは手元の問題集に視線を戻す。


「じゃあ、お茶でも淹れてきてやるよ」

「コーヒーがいい。思いっきり濃いやつ。ブラックで」

「……OK」


 くすくすと笑いながら、吉野は部屋を後にした。パタンとドアが閉まる。アレンはふぅと息を継いで頬杖をつき、しばらくの間、風に嬲られ舞い上がる桜色を、勢い追い立てるように広がっている新緑を、眩しそうに眺めていた。

 だがやがて気を取り直すと、彼はきゅっと唇を引き締めて問題集を手元に引き寄せると、カリカリとペンを走らせて問題を解き始めたのだった。




「休憩?」

 吉野がダイニングに入ると、一人で昼食を食べていた飛鳥が顔を上げた。

「今頃メシかよ?」

 飛鳥の前には、昨夜のうちに吉野が作っておいた、食べかけの肉じゃがと、白ご飯、味噌汁が並んでいる。

「うん。お前も食べる?」

「いや、いいよ。コーヒーを淹れにきただけだから。メアリーは?」

「買い物に出てるって」

「そうか、じゃあ、俺も後から行かないとな。頼みそこねた」

「何? メールしようか?」

「いや、いいよ。食材を見て決める。あいつ、今いち元気がないからさ、」


 繊細なアレンの憂いの種は、近しい人を失った喪失感だけではないだろうに。


 ジャックの葬儀でのアンと弟の気心のしれた様子と、それを離れた場所から何ともいえない様子で黙って眺めていた(アレン)の想いに思考を巡らせつつ、飛鳥はテーブルを挟んで向かいに腰かけた弟をちらちらと眺めながら、せっせと箸を口に運んでいた。


「お前、いつまでこっちにいる?」

「もう二、三日かな。でも、五月にまた戻ってくるよ。学年末試験があるし」

「ハワード教授とは連絡取ってるの?」

「当然だろ」


 吉野は、飛鳥が食べ終わると立ち上がった。


「飛鳥、コーヒーは?」

「貰うよ」


 吉野は変わらず、一人で食事をさせることを嫌がるのだな、と、家族の繋がりをなによりも大事に思ってくれる弟に感謝しながら、「ごちそうさま、今日も美味しかったよ」と飛鳥は空になった器の前で手を合わせる。




「なぁ、吉野」

 キッチンで湯を沸かしている飛鳥は唐突に背中に声をかけた。

「あの女の子、今、何しているの? あのパブの手伝い?」

「学生だよ。ロンドン大学の三年生。店は親父さんとバイトで充分まわってるし、卒業後は大手のチェーン店に就職して修行するって言ってたよ」

「ふーん、しっかりした子なんだね」

「そうだよ、アンは昔っからしっかり者で頑張り屋なんだ」


 コーヒーを淹れながら、吉野は振り返りにっと笑う。


 そんな弟に、飛鳥は、


 お前、彼女のことをどう思っているの?


 と、尋ねたかったのだ。けれど、自分に笑いかける弟の笑顔があまりにも無邪気で――、飛鳥は微笑み返しただけで、結局、何も言いだせずじまいだった。





 吉野が運んできたコーヒーを、アレンは睨みつけながら一口飲んだ。吉野はその様子をくすくす笑いながら見ている。


「そんな不味そうな顔するなよ」


 思い切り眉間に皺を寄せているアレンをおかしそうに見つめ、吉野はカップに角砂糖を二つ落とした。さらにミルクを加えてスプーンでかき回す。


「もう目は覚めただろ? 頭を使っているときには糖分を取った方がいいんだぞ」


 スプーンがカチャリと置かれた後も、渦を巻いて回っているカップの中の柔らかな液体に、アレンはちょっと哀しそうに唇を尖らせる。



 こうやってきみは僕を甘い想いに浸らせたまま、かき回し続けるんだ。くるくると、いつまでも――。



「なんだ、ちゃんとできてるじゃないか」


 上目遣いに見上げた吉野はにっこり笑って手を伸ばし、アレンの頭をくしゃくしゃと撫でていた。





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