帰還
居間から続くレンガ敷きのテラスにティーテーブルを持ちだして、サラとアーネストがチェスをしている。その二人の様子を、階段を上った高台の広場から、アレンは興味深そうに眺めている。
「あれ、勝負になるのですか?」
スタート時点で、いくつもの駒を除いてのチェスゲームだ。アレンは訝しげに、かたわらの飛鳥に問いかける。
「ん? ならないよ。あれは、アーニーが何分間持ちこたえられるかを計るゲームだから。初めからサラの勝ちは決まってるよ」
飛鳥はガーデンチェアーにゆったりともたれて、膝の上のノートパソコンに視線を落としたまま答えた。
「すごいんですね、彼女――」
ため息に似た言葉に、飛鳥は顔をあげてにっこりと微笑む。
「サラといい勝負ができるのは吉野くらいだよ。サラもつまらないだろうな、吉野がいないと。まぁ、だからああして、アーニーやデヴィがゲームに付き合ってあげてるんだけどね」
吉野が彼女とチェスをする――。
今まで想像したこともない光景を思い浮かべ、アレンは驚いてじっと遠目にサラを眺めた。真剣な表情で盤面を睨むアーネストに納得もし、吐息を漏らす。確かに彼女では、吉野のようには手加減してくれそうにない。吉野にしても、手心を加えずに闘える相手はそうそういないだろう。遊び相手にすらなれない自分よりも、思う存分に競い合える彼女の方がゲームの相手として相応しいに違いない。
知らないことの方がずっと多いのに、何か一つ新しい事実を知る度に、そこに軽い嫉妬と羨望を覚えて自己嫌悪に陥る。そんな事の繰り返しだ。自分にだって、抱えきれないほどの思い出はあるというのに……。
「ヨシノとは、僕もよくチェスをしていました。教えてもらっていました、という方が正しいですけど」
ふわりと、アレンは顔をほころばせて飛鳥を振り仰いだ。自分にないものを数えたところで、虚しくなるだけだ。彼が自分にくれたもの、自分に割いてくれた時間こそ大切にしなければ、と自分自身に言い聞かせるように。
「帰ってくるよ、あいつ」
「え――」
「ハワード教授に呼びだされてるんだって」
時間が静止してしまったように固まったアレンを見て、飛鳥はぷっと吹きだした。
「もうずいぶん経つよね。あいつが行ってから」
「いつ?」
「何もなければこの二、三日中に」
飛鳥はパソコンをテーブルに置いてガーデンチェアーから立ち上がると、ぎゅっと眉根を寄せ唇を引き結ぶことで込みあげてくる想いを抑えているであろうアレンに歩みよった。そして彼の柔らかな金髪をくしゃくしゃと撫でてやる。
「なんだかもう、こうやってきみの頭を撫でるのは変な気分だよ。きみはもう、どこから見ても立派な大人と変わらない。それなのに、いまだに迷子の子どものような瞳であいつの背中を追いかけているなんて」
「すみません」
「謝らないで、こんなことで。僕だって、あいつが目の届くところにいないと心配で気が気じゃないよ。何をしでかすか判らないからね、吉野は……」
飛鳥のボヤキに、アレンはふふっと口角をあげた。
「また、変わっているんでしょうね、彼は――」
そして僕は、また一人取り残されて、立ち止まっている自分を恥じ入ることになる――。
「ごめんね。あんな馬鹿で」
嬉しさと自己嫌悪の狭間で揺れ動く彼を優しく見守る飛鳥の口からは、謝罪の言葉がしみじみと漏れていた。だがアレンは、にっこりと首を横に振る。
「謝らないで下さい、こんなことで。彼がいつも、誰よりも未来を歩いていてくれるから、僕は迷わずに前だけを見つめることができるのですから。追いつけないのがもどかしくて、――今は。でも、僕は諦めません」
「きみは、強いね。僕はあいつが傍にいないと、あっという間に道を見失ってしまうのに」
ため息をついて、ふっと眼下のテラスに視線を移した飛鳥だが、石造りの欄干に手をつくと、ふいに声を張りあげた。
「終わったの?」
テラスでは、アーネストが片手を挙げて笑い返している。
「お茶にしよう!」
「今行く!」
誘うように自分に視線を向けた飛鳥に、「アスカさんは――、」とアレンは言い淀み、ちょっと首を傾げて、「ヨシノが帰ってきたら、何を作ってもらおうかなぁ。アスカさんは、何が食べたいですか?」と、明るい声で続けた。
「そうだなぁ、どうせ長くは滞在しないだろうし……」
ノートパソコンを小脇に抱えて歩きだしながら、あれもこれもと言い募る飛鳥に微笑み返し、アレンは、
サラが好きなのですか?
と、思わず口にしてしまいそうになった自分を戒めていた。
好きの意味が判らない。
僕の好きと、飛鳥さんの好きはきっと同じじゃない。
吉野の好き、となるともっと判らない。
渦中のサラは、アーネスト相手に終わったゲームの再現と説明をしている。吉野がいつもアレンにしてみせていたように。
似ているから、共通点があるから、好きなのだろうか? 理解が容易いから――。
「アスカさんは、チェスはなさらないのですか?」
「できないことはないけど、好きじゃないんだ、勝負事が。先の見えない未来の方が面白いだろ?」
――え?
と、面を向けたアレンを尻目に、飛鳥は、もうテーブルについて彼らの話の輪に入っている。
「アレン、きみは紅茶にする? それともコーヒー?」
ぼんやりと立ちつくしていたアレンは我に返って、「コーヒーをお願いします」と、長い間科していた戒めを、無意識的に解いていた。




