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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
531/805

  対抗6

「アスカさんの心に、ぽっかり穴があいているみたいで――」

 麗らかな春の陽射しをコンサバトリーのガラスが反射して、きらきらしい。眩しさに目を眇めるアレンは、そんな景色にそぐわない沈んだ調子で呟いた。

「どうしてかな……。クリスマスに来たときは、寂しそうだったけれどああじゃなかった気がします」

 向かいのベンチに腰かける兄を、アレンは遠慮がちに見つめている。だがヘンリーは、上半身を捻り、背後の背もたれに頬杖をついて蜂蜜色の館をぼんやりと眺めているだけだ。


 返事のない静けさに、アレンの戸惑いだけがゆるりと混じり漂っている。


 しばらくすると、ヘンリーはアレンに向き直り、「彼はあれで普通だよ。寂しいが吹っ切れて普段の自分を取り戻したんだ」と、目を細めてふわりと微笑んだ。そしておもむろに煙草を取りだす。

「かまわない?」

「あ、はい」

 やがて漂ってきた強い香りに、アレンは身体の位置を変えた。


 ヘンリーの吐くため息にも似た息が、白煙とともに春風に舞う。


 この兄を前にしては、木立の奥に聴こえる鳥のさえずりも葉擦れの音も、いつものようにアレンを寛がせてはくれない。続かない会話に焦りを感じ、ちらちらと兄の様子を伺い見ながら、いくら待っても来てはくれない飛鳥を若干の恨みのこめて心の中で何度も呼んだ。


「それで、アスカは何て?」

「え?」

「昨日」

「あ、はい――。気にいらないから、もっとイメージを膨らませる要素を付け加えてみるって、仰っていました」

「そう。それなら、まだまだかかるのかな」

 ヘンリーは深くため息をついている。

「つまらないな。彼はこうなるとちっともかまってくれなくなるからね。話しかけても上の空だし、一生懸命説明してくれているときだって、どこを見ているのか判らない遠い眼をしているし――。僕のことなんて眼中に入らなくなるんだ」


 唇を尖らせているヘンリーを、アレンは大きく目を見開いて、きょとんと見つめた。


「――あなたでも、そんなふうに思われることがあるのですね」

「お前まで、僕のことをマキャベリ片手に支配を固める専制君主だ、なんて言いだすのじゃないだろうね」


 軽く眉根を寄せたヘンリーに、アレンは慌てて頭を横に振る。


「ヨシノも同じだよ。あの兄弟、本当によく似ているよね。僕は確かに彼らの目の前にいるのに、彼らの意識は宇宙の彼方に飛んでいるんだ。僕からしてみれば、あの二人、まったくもって宇宙人だよ」


 憤慨している様にも見えるヘンリーに、アレンはますます目を丸くする。


「あの二人が設計している時なんて、僕に立ち入れる隙なんて爪の先ほどさえもないんだ。英語でも日本語でもなくて、数式で語りあう――、なんてサラくらいのものだと思っていたのに、世界は広いよね」


 この兄がアレンに愚痴を零すなど、初めてのことだった。アレンは心臓をどぎまぎさせながら頭の中を引っ掻き回して、返すべき言葉を探した。


「本当に、何をしているのだろうね……」


 ヘンリーの視線の先、コンサバトリーのガラス壁の内側で、飛鳥は立ったり座ったりぐるぐる歩き回ったり。じっとしていない彼を目で追いながら、今度はクスクスと笑いだした兄を見つめ、ああ、返事なんていらないのか、とアレンの口許からも笑みが溢れた。


 兄の願いは、マキャベリ片手に世界戦略を練ることではなく、常に新しいものを創りだそうする飛鳥が安心してのたうち回れる場所を守ること。その場所がここにあるからこそ、吉野は安心して飛鳥を残して旅立つことができるのなら、アレンが吉野に対してできる事は、今まで彼がしてきた様に、少しでも飛鳥の制作の助けになるように務めることなのかもしれない――。


 自分が吉野を想ってヤキモキするのと同じように、兄もまた飛鳥に振り回されている様にも見え、アレンは初めて、この遠い空の上の存在であった兄に親近感を覚えた。だが、彼にとって、自分と彼の兄との決定的な違いは、ヘンリーは、それすらも楽しんでいるように見える、ということだろう。





 やがて緩やかな斜面を息を弾ませて上ってきた飛鳥を、ヘンリーは立ちあがって東屋から迎えでた。


「煮詰まっちゃって……」

「君の頭の中も、少し風を通した方が良さそうだね。あまり根を詰め過ぎるのも良くないよ」


 かすかな苦笑に混ぜて吐息を漏らしたヘンリーの手前で、飛鳥は芝生に寝転がる。


「ヘンリー、今日はいい風が吹いているね」


 飛鳥は空に向かって腕を伸ばす。


「自然はこんなに美しいのに、僕はいったい何をしているんだろう?」


 横に腰かけたヘンリーに、飛鳥は微笑みかけて訊ねた。


「きみも空の青さに憧れたことがある? どこまでも透明に広がっていきたいと思ったことがある?」

「きみを見ていると不安になるよ、この空に溶けてしまいそうで」

「まさか!」

 飛鳥は声を立てて笑った。

「やっぱりきみはロマンチストだね。マキャベリよりもキーツが似合う」

「そんな事を言うのはきみくらいだよ。きみの方こそ、地下を、そして海底をも放浪して天空に飛びたつエンディミオンじゃないか」


 急に飛鳥は顔を赤く染めて、ごろりとうつ伏せに寝返った。ヘンリーは、はっと表情を強ばらせてあらぬ方向へ視線を逸らした。そして、そのまま宙を睨んで動かなかった。


 急にぎこちなくなった二人を東屋から眺めていたアレンは、訝しげに顔を傾げ、「アスカさん!」と声を高めて呼んだ。


「どの樹がソメイヨシノか教えて下さい」

「OK!」


 弾かれたように立ちあがり東屋に走る飛鳥を、ヘンリーは追わなかった。




 満開の桜の植えられた一帯をそぞろ歩きながら、アレンは努めてさり気なく飛鳥に訊ねてみた。


「エンディミオンって何ですか?」

「さっきの話?」

「ごめんなさい。兄は何にアスカさんを例えたのかな、って気になってしまって」

「謝るようなことじゃないよ。エンディミオン は、ギリシャ神話をモチーフにしたジョン・キーツの詩だよ」

「キーツの詩――」



 それ以上この話題は避けるかのように唇を結ぶと、飛鳥は、突風に煽られ、舞う、薄紅色の吹雪を目を眇めて眺めていた。







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