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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
524/805

  不在7

「アスカ」

 久しぶりに聞く懐かしい声に顔をあげた飛鳥は、すっかり相好を崩していた。

「ロニー、久しぶり」

 白いラグの上に胡座をかいて、つるりと光る青いサテン地クッションを抱えている飛鳥を見つめ、ロレンツォも変わらぬ明るい笑顔を見せる。




「これか? ロンドン本店で話題になっているディスプレイは? ニューヨークとはまるで違うんだな」

 好奇心に瞳を輝かせ、ロレンツォは飛鳥の前に浮かぶ三フィートほどの立体映像の都市モデルを覗きこむ。

「吉野は今ここにいるんだよ。だから、ついさ……。ヘンリーも、吉野たちが推進している太陽光発電に技術協力して、提携を結んでくれているんだ。だから、その記念イベントってことでかまわない、て言ってくれたし――」


 飛鳥はどこか言い訳するような口調で、もどかしげに笑った。


 太陽光発電に使われているソーラーパネルには、『杜月』のガラスが使われているのだ。これも祖父の残した多岐に渡るガラス研究の遺産から開発されたものだ。今、『杜月』のガラスは、アーカシャーHDを通じて世界に販売ルートを広げている。今でこそ、TSの『杜月』といわれるようになったけれど、ガラスの『杜月』であることに変わりはない。


 だが、今回飛鳥の作った立体映像は、そんな背景とは関係ないまったくの私情からのものでしかない。純粋に、自身の吉野への思慕を慰めるためのもの――。その後ろめたさが、飛鳥の口調を重く、ぎこちなくしている。



「お前の弟にワシントンであったぞ」

 同じように胡座をかいて座ると、ロレンツォはいつも表情豊かな彼らしくない、どこか覚めた瞳を飛鳥に向けた。

「アブド大臣にくっついて、大使館のパーティーにいた。むこうの民族衣裳を着て。すっかり溶けこんでいて、すぐにはあいつだとは判らなかった」と、ロレンツォは大袈裟に肩をすくめてみせたけれど、それは嘘だ。すぐに吉野だと気がついた。どこで遇おうと、あの独特の存在感を見紛うはずがないのだから。


「元気にしてた?」

 嬉しそうに顔をほころばした飛鳥に、ロレンツォは苦笑して頷く。


 あの弟が何と呼ばれているのか、目前のおっとりとしたこの兄に伝えるのは憚られた。


 この飛鳥の弟は、若さという、大概は侮られ誰からも相手にもされない欠点を武器に、ほくそ笑みながら国際舞台に謀略の糸を張り巡らせているのだ。あの、どこかあどけなさの残る、無邪気な笑みを湛えた仮面の下で――。



「ニューヨーク支店にも寄ってきたんだ。向こうの評判も上々だったぞ」

 ロレンツォは、話題を変えてにこやかに微笑んだ。彼にとっては、飛鳥が自分に向ける安心しきった笑みこそが、真実価値のあるものだから。

「ロンドンが懐かしくなったよ。だから戻ってきた」

「嬉しいな。あれのおかげで、久しぶりにきみに逢えたのか」

 飛鳥は無邪気に笑った。心から。


 どことなく面影は重なるのに、こうも印象の異なる兄弟に、ロレンツォは、苦笑と吐息を漏らすしかなかった。



 ニューヨーク支店のディスプレイは、薄らと漂う霧に閉ざされたロンドンの町並みだ。赤い煉瓦造りの建物に挟まれた路地を、まるで迷いこんだ黒猫のようなアレンが、時おり現れては空を振り仰ぐ。あのセレストブルーの瞳が不意に、足下から、天井から、自分に向けられる。彼の登場で、若いニューヨーカーの叫び声がいくつもあがる。毎日入場制限をせねばならないほどの熱狂ぶりだ。

 あの瞳で、ヘンリーに逢いたくなったのだ。

 南米各国と米国を往復するばかりで、ロレンツォは、気がつくとかなり長い間英国を留守にしていた。こうして飛鳥に会うのも一年ぶりになる。



「ヘンリーに似てきたな、こっちの弟は。顔貌は幼い時の方がまだ近いと思えたが、今は雰囲気が似てきている」

「近くにいるからかな。アレンが聞いたらきっと喜ぶよ」


 真顔で呟かれたロレンツォの言葉に、飛鳥は少し複雑そうな表情で苦笑する。


 こっちの弟は――。


 お前の弟は、時が経つにつれ違いが際立っているのに――、飛鳥には、そんなふうに言われた気がした。



 ノックの音に、ロレンツォは立ち上がった。ヘンリーが戻ったことを告げにきたマーカスに、軽く頷き返す。


「じゃあな、俺は、お前の作品を見るのを楽しみにしているんだ。頑張れよ」

「ありがとう、ロニー。きみが休みをとれるようなら、一緒にロンドン観光しようよ。ロンドンの町並みを作っているのに、僕はいまだにこの街の観光をしてないんだ」


 ロレンツォは、思わずくっと吹きだす。

「ヘンリーに言っておいてやる。お前の会社の福利厚生はどうなっているんだってな」

「それはまずいよ。僕はこれでも肩書きは管理職だよ」

 慌てて言いたした飛鳥に、ロレンツォは軽くウインクを返した。

「任せておけ。そこは上手く言っておくさ」




 どんなに長く逢わないでいても、昨日別れ、今日再会したように時を繋げる変わらぬ友人を、飛鳥は安堵の笑みで見送った。


 こんなふうに穏やかな気持ちではとても見送れない弟のことを思い、飛鳥は苦笑し嘆息する。

 眼前に残された、手直し途中の都市映像に映る豆粒ほどの小さな弟の姿を、ピンッと指で弾いてみる。映像を通りぬけた自分の指先の下で、吉野は相変わらず笑っている。

 心配するな、というように。寂しがるな、と咎めるように――。







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