不在5
「アスカさんは、酔わないのですか?」
片目だけ薄らと開け、アレンがひたすら見つめているのは自分の親指だ。だがそこから怖々と、青絵の具を空間そのものに溶かしたような、そんな空の真ん中で胡座をかいている飛鳥に視線を移す。
「ん? まぁね。本物じゃないからね。粒子も荒いし、空間認識は騙されないみたいだ」
飛鳥は下を向いたまま、手元の端末を触っている。粒子が荒いと言われても、アレンから見るとこの空間は本物の空と変わらない。こうしてソファーに座っていてさえ、すぐに平衡感覚がおかしくなってしまう。
「でも、気持いいよ。偽物の空でも、鳥になれた気分だ」
飛鳥は顔をあげ、アレンを振り返る。身を縮こまらせて固まっている彼に、片手を差しのべる。
「怖がらないで」
アレンは、その細い女の子のような頼りなげな指先に視点に定めて、にじり寄るようにして飛鳥の傍まで近づく。
「背中合わせになって。僕にもたれていいから」
床に腰をすえ、言われた通りに背中をくっつけて、アレンはそっと目を開けた。
雲一つない蒼穹――。
その蒼の中に浮かんでいる自分は、酷く孤独で覚束ない。接している背中に感じられる飛鳥という人が、アレンには不思議でならなかった。ここにずっと座り続けていられる彼は、どんなふうに自分という存在を感じているのだろうか、と。
「きみはもうロンドンの新作、見てくれた?」
「いえ、まだです。年が明けてから友人と行こうかと」
「予定が決まったら、ヘンリーに言っておくといいよ。きみやフレッドが営業時間中に行ったらひと騒動だ。前か、後――、僕は朝の方がお薦めかな」
「時間帯で違うのですか?」
「朝焼け、青空、今の時期はたまに雪が降るよ。それに、夕焼けと星空。運が良ければ、きみに遇える」
「僕に?」
アレンはくすくす笑った。
今回の店舗イベントの映像は、デヴィッドも飛鳥も、悪戯っ子のようにただにこにこと笑うだけで、詳細をちっとも教えてくれないのだ。元にする映像の撮影も、アレンはその辺を歩き回っただけなので、それがどう使われているのか想像もつかない。
「きみに遇えるまでお客さんが動かなくて困るから、SNSでこっそりきみの現れる時間帯を漏らしたりしているらしいよ」
「ははは、じゃあ、僕も自分探しの旅にぜひ行かなくっちゃ」
新年が明け、学校に戻る直前に、アレンはフレデリックとクリスを伴ってアーカシャーのロンドン本店を訪れた。デヴィッドが、午前中ならつきあえると言ってくれたので、開店一時間前に来店した。
来店時間は前もって告げてあったので、店舗内はもう営業時間と変わらないようにしてくれているらしい。デヴィッドがにやにやと見守る中、三人は不思議そうに辺りを見まわす。
今までのような、映像でのディスプレイはないように思えた。
不透明な蒼い鏡面にとり囲まれた店内。商品の展示台もそのまま。
飛鳥さんの空――。
アレンはふとケンブリッジの館のコンサバトリーを思いだし、ここに地面はちゃんとあるのだろうか、と足下に目をやる。
足の下に砂漠が、そこに築かれた黄金色の町並みが広がる。平衡感覚を失い、くらりと身体が傾く。アレンは慌てて目を瞑って、手近な展示台に手をついた。
「あ、きみがいた!」
この仕掛けに気づいたクリスが、嬉しそうな声をあげる。
クリスの指さす先で、石造りの建物に挟まれた狭い路地で、白いシャツを風にはためかせている自分が空を見上げて手を振っている。
釣られて天井を見上げると、鏡写しの町並みに立つ自分が逆立ちして、自分を見下ろし手を振り返していた。
アレンは吐息を漏らし、いつの間にか彼の横にいたデヴィッドの腕に縋りついていた。
「もう、アスカさんの頭の中って、どうなっているんですか? 僕には、彼はクノッソス並の迷宮です」
デヴィッドはくすくすと笑って、アレンの頭をわしわしと撫でる。
「兄弟だねぇ。ヘンリーと同じこと言うんだね」
クリスとフレデリックは楽しげに、足下を覗いたり、天井を見上げたりしながら店舗内をくるくると歩きまわっている。
アレンはまたひとつため息をついて、デヴィッドに顔を向ける。
「ここは鏡の中間ですか?」
「さすが! いい勘してるね」
「閉じこめられているみたいだ」
ふわりと微笑んだアレンの笑みは、どこか辛そうに見える。
「きみは相変わらず、足下に地面がないと駄目なの?」
アレンは頭を横に振る。
「たぶん縛られない空間が怖いんです。自分の足で立てないようで――」
僕にもきみのように翼があれば、どこまでだって追いかけるのに――。
何度そう思ったことか。青い空を見上げるたびに。
涙が溢れそうになって、アレンはぐっと奥歯をくい縛った。ふわりと、温かな手が頭にのせられた。彼の溢れる想いを受けとめるかのように。
「同じ空の中にいる。そう考えれば、楽にならないかな? 僕は日本に留学していたとき、空を見上げると嬉しかったよ」
壁面の蒼に、天井と床から鏡合わせに赤紫が広がり、蒼と混じりあっていく。
「夜明けだよ。本当は開店時間から始まるんだけどね、特別サービスだ。きみの瞳の色だからねぇ。あの子もね、朝焼けを見て、至高の空の瞳を持つ誰かのことを、きっと思いだしてるよ、きっとね」
歯をくい縛ったままアレンは無理に笑顔を作り、背筋を伸ばして、頭をくいっと高くあげた。




