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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
521/805

  不在4

「お帰り!」

 頭上から降ってきた声に、ニューヨークから戻ったばかりのアーネストは、疲れを見せないにこやかな笑顔で振り仰いだ。飛鳥がロートアイアンの手摺から身を乗りだして手を振っている。久しぶりに見るアーネストの元気な姿に、自然に顔をほころばせている。

「おはよう、今朝は早いんだね」


 飛鳥は、イベント前はいつも明け方まで作業してから、やっと眠りにつく。この時間に顔を見せるのは珍しい。一瞬の驚きを伴った喜びが収まると、眠たげで顔色の悪い彼は、口許に引きつった笑みを張りつかせたまま、手摺にもたれてぼんやりとしている。


「アスカ?」


 今にも崩れおちてきそうだ――。


 アーネストは心配そうに彼を呼び、立ちあがった。だが、ほっと息をついてまた座りなおした。


「吉報があるよ」

「それは楽しみだな」

「でも、悪いニュースもひとつ」


 飛鳥の背後に見えたヘンリーに、アーネストはひらひらと手を振る。彼は軽く頷くと、飛鳥の腕を支えるように掴んで階段へ回った。




 三人で和やかな朝食を終えると、コンサバトリーに移動した。飛鳥はソファーに寝転がると、あっという間に寝落ちている。


「彼は集中していると食事を取らないからね。僕がいる間くらいは、叩き起してでも一緒に食べるようにしているんだ」

「ヨシノは元気にしているの?」

「みたいだよ」


 二人して、申し合わせたように言葉が続かない。アーネストはこの沈黙を破るために、こくりと紅茶を飲みくだす。


「今、話してもいいのかな?」

 ヘンリーの横で眠っている飛鳥にちらと視線を送り、アーネストは確認するようにヘンリーに戻した。

「内容によるかな」

「裁判のこと」


 かまわないよ、とヘンリーは頷く。


「こちら側が優勢は変わらないよ。半年待たずして決着がつきそうだよ」

「それは良かった。お疲れ様、アーニー。それで、もうひとつの方は?」

「特許侵害に該当する製法を捨てた新製品の噂が出回っている」

「早いね」


 くすくすと笑いだしたヘンリーに、アーネストは、なんとなく予期していた通りの反応だと思いながらも苦笑を向ける。


「笑いごとかい?」


 笑いを引っ込め、首を横に振るヘンリー。


「まさか。――さすがだな、と思っただけさ。そうでなくてはトップの座は守れない。裁判で負けて永久差し止めが確定するのを指を銜えて待つだけ、なんて愚の骨頂だし、勝ちを信じて長々と裁判で争い続けるのも不毛だからね」

「きみがそれを言うの?」


 アーネストは呆れたように笑った。


「けれどね、」


 ヘンリーは余裕の笑みをみせ、飛鳥が寝入っているのを確かめるように、その髪をさらりと撫でた。


「ヨシノの方が一枚上手だ」


 ここにきて、この名前か……。


 と、アーネストは小首を傾げる。この件に関しては、自分にすべて委託したのではなかったのか、と。


「南米の政変で、商品市場が荒れている」

「それが?」


 何の関係が――、と言いかけて、アーネストは、はっと息を呑んだ。


「リチウム?」

「リチウム価格が高騰している。この一年で三倍になったよ。ルベリーニが、生産と流通量を絞っているんだ。それだけじゃない。砂漠の太陽光発電のために、殿下が国をあげて相当量を買い占めにまわっているんだ」

「一番影響を受けるのは――、携帯、パソコン、それに電気自動車辺りかな」

「ガン・エデン社は、大株主のフェイラー系列の会社からリチウムを買いつけているだろう? 現在の市場で、新製品を世にだせるだけのリチウム電池を確保できるかな」


 楽しげに眉根をあげるヘンリーとは逆に、アーネストは深く吐息を漏らしていた。


「哀れなカールトン。同情するよ」

「彼がせっかく作ってくれたチャンスだよ。生かさないとね。彼が戻って来る日のためにも」

「あの子、戻ってくるの? このまま砂漠の王族の一員になるんじゃないの?」

「戻ってくるよ。アスカがここにいる限りね」



 頭上でそんな会話が交わされているなど気づくこともなく、飛鳥はぐっすりと眠りこんでいる。



 生産拡大のための製造ラインの確保。これからガン・エデン社が切り捨てていく下請け業者を根こそぎもらいうけて成りかわる。


 それが吉野のたてたアーカシャーHDの世界戦略の第一歩だ。


 不況時は容赦なく切り捨て、好況時にのみ取りこむ。そんな非情なやり方でも今まであの会社がやってこられたのは、成りかわれるだけの規模のライバル会社がなかったからだ。

 大規模受注を得ることができるガン・エデン社との取引は、厳しい注文付きであっても、得がたい存在だったのだ。たとえ、その罠に嵌まり、蟻の巣地獄のように這いあがれなくなるサイクルに陥ることになる、と気づいていてさえも――。


 だが、今後あの会社が盛り返す時期があっても、苦しい時期に切り捨てた下請け会社が、その下請けを受けることはもうないだろう。その頃には、アーカシャーの冠せられた製品がラインを埋め尽くしているのだから。


 このために吉野は、通信機器端末に不可欠なリチウム鉱山を押さえ、生産量と流通ルートを制御し、根底からガン・エデン社に揺さぶりをかけているのだ。

 特許侵害裁判など、その目晦ましにすぎない。



 数年後には――、パソコン、携帯等の通信機器シェアトップ会社の名は、アーカシャーHDになっている。


 吉野は必ず戻ってくる。ガン・エデン社を完全に追い落とすためにも……。





「アーニー、アスカの新作を見るかい? クリスマス用の。今回も前作に劣らない、素晴らしい出来栄えだよ」


 ティーカップをソーサーにカチャリと戻し、ヘンリーは優雅に微笑んだ。ローテーブルに置かれたTS立体映像専用端末の電源を、しなやかな指先がトン、と叩いた。




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