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胡桃の中の蜃気楼  作者: 萩尾雅縁
第九章
520/805

  不在3

 時おり首を捻りながらも懸命に喋っている飛鳥の話を、ヘンリーは目を細めてにこにこと聴いている。その間も、コンサバトリーの空間は青空から霧の中、雪景色、はては飛沫(しぶき)飛び散る海原へと、目まぐるしく変化している。


「きみはどれがいいと思う?」

 飛鳥は何度目かの同じ質問を繰り返している。

「ん? そうだね。きみがいいと思うものでいいよ」

 ヘンリーからの返事も同じ言葉。

 飛鳥は唇を尖らせる。

「ヘンリー、真面目に考えてよ! クリスマスなんてあっという間なんだから!」

 十月も、もう半ばになる。新しい店舗ディスプレイにそろそろ取りかからなければ間にあわなくなりかねない。今回は、去年のように秋に作ったものの焼き直しという訳にはいかないのだ。


 あれはあれで、すこぶる評価が高かったけれど――。


 結局今年のディスプレイは、人気の高さに甘えて、アレンの水蓮池でこの一年を乗り切った。冬には雪を、春には花びらを舞い散らし、夏は蕾の睡蓮を花開かせた。そして、この秋は黄昏色に染まる彼と池だ。さすがに、また雪に戻るのでは芸がなさすぎる。


 ハーフタームで戻ってきているアレンの撮影だって済ませてしまいたいし、デヴィッドだって、コンセプトだけでも決めてくれと煩いのに――。


 肝心のヘンリーは、人ごとのように澄ましている!


 眼前でのんびり優雅にお茶を飲んでいる彼に、飛鳥はぷっと頬を膨らせる。そんな彼の内心を知ってか知らずか、ヘンリーは、片膝立てた上に肘をついてくすくす笑っている。


 英国での暮らしにも慣れてきたのか、日本での習慣が戻ってきたのか、飛鳥は床の上で作業する事が日常になっている。ローテーブルを座卓のように使い、ソファーには座らず胡座をかく。

 サラも相変わらず床の上での作業が好きなので、冬場は冷たすぎる大理石の床には、毛足の長い白のカーペットが敷かれている。



「アレンの池が人気が高かったぶん、あれよりも見劣りするものは作れないんだからね!」

「駄目だよ、眉間に皺。癖になってきているよ。跡が残ってしまうよ」

 眉根を寄せる飛鳥の眉間を、ヘンリーはくりくりと指で伸ばす。


 きみのせいじゃないか!


 と言いたいところをぐっと呑みこみ、飛鳥はため息に変える。


 ヘンリーがこれがいい、とはっきりさせないということは、ようするに全部駄目なのだ。飛鳥一人が足掻いているだけで――。


 彼はベターは選ばない。常にベストを目指す人だ。

 それが、彼だから――。


 また、飛鳥の口からため息が漏れる。


「ため息をひとつつくと、幸せがひとつ逃げるんだって知っているかい?」

 ため息の元凶が、にこやかな笑みを浮かべて言った。

「ため息は身体にいいから我慢するな、て、吉野に言われたことはあるよ」

 飛鳥は少しだけ恨みをこめて言い返す。だが、やはりヘンリーは笑みを崩さない。

「それは初耳だよ」

「僕は君たちみたいな、腹の内を見せない紳士じゃないからね、ため息をついてもいいんだよ!」


 ちょっと雲行きが怪しくなってているかな……。


 と、これ以上飛鳥を苛立たせないように、ヘンリーは話題を変えることにした。


「そのヨシノ、いつ帰ってくるのかな」


 この話題じゃ、またため息か――、とヘンリーが飛鳥を見やると、意外にも彼はため息を漏らさなかった。


「砂漠の蜃気楼をつくろうかな。吉野が送ってくれた写真のオアシスみたいな――」


 飛鳥の鳶色の瞳は、もうヘンリーを見ていない。ヘンリーは、はぁ、と深くため息をついていた。





「意外に二人とも平気な感じだねぇ」

 戻ってきたデヴィッドは、ヘンリーとお茶を飲みながら声を潜めて囁く。


 大学の入学式と重なるハーフタームに、嬉しそうに帰ってきたアレンを迎えたのは、「入学式欠席」の吉野のメールだった。アレンも飛鳥も、その素っ気ない連絡に、ただ苦笑しただけだった。


「いや、相当堪えているよ、あの二人。飛鳥はコンサバトリーに篭もりっきりだし、アレンはずっとピアノの前だ」


 ヘンリーの返答に、それぞれ鬼の形相で取り組んでいた二人を思いだし、デヴィッドは苦笑いを漏らす。


「僕だってしばらくアーニーに会ってないのになぁ!」


 アーネストは弁護士としての仕事で、ニューヨークとロンドンの往復だ。英国に戻っている時でさえ、ケンブリッジに寄る暇もないらしい。ヘンリーとの打ち合わせもすべてロンドンで済ませているのだ。大学院に進み、ケンブリッジにいることの多いデヴィッドにまで気が回らないようなのだ。


「そうだね、でも、もうじきだよ」

 意味ありげに微笑むヘンリーを、デヴィッドは訝しげに見つめ返す。

「悪い事企んでる顔だねぇ、ヘンリー!」

「企んだのは僕じゃないけれどね」

 澄まして応える彼に、デヴィッドは眉根を上げてため息を漏らした。

「ああ――。あの悪ガキね……」


 居間のガラス戸から覗くテラスは影が大きく伸び、夕闇が迫っている。風がガラスを叩き、色づいた木の葉を散らしている。


「そろそろ冷えてきたね。二人にお茶を淹れてあげるよ。蜂蜜入りジンジャーティー。僕の淹れるお茶、美味しいよ。生姜の磨り下ろし方にコツがあるんだ。きみもどう?」

 デヴィッドは急に思いだしたように瞳を輝かせている。

「そうだね、いただこうかな」

 ヘンリーはにこやかに相槌を打った。それは、いいねと。


 あの二人に、吉野直伝のジンジャーティーを――。

 心の隙間に吹きこむ風で、風邪をひいたりしないように。








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