不在2
コンサバトリーの真ん中で胡座をかいたまま、飛鳥はぼんやりと宙を見つめている。ヘンリーはそんな彼の背中を気づかわしげに眉をよせて眺め、静かにドアを閉めた。ドアにもたれて、傍らのサラに声を低めて訊ねる。
「ずっと、あの調子? 食事は取っている? また、ぶどう糖生活に戻っているんじゃないだろうね?」
「あまり食べていないと思う。マーカスに訊いてみて」
夕食以外の食事時間はそれぞれ違う。サラでは把握できないのだ。ヘンリーは頷いてマーカスを呼んだ。
ティールームにお茶を運んできたマーカスに飛鳥の様子を聴き終えると、ヘンリーは眉間に皺を寄せ、ソファーの肘掛をトントンと指で叩いた。いらいらしている時の昔からの彼の癖だ。
マーカスは申し訳なさそうに頭を下げている。
「いや、お前のせいではないよ。アスカのヨシノ依存は今に始まった事ではないしね。それにしても、」
ヘンリーは、もどかしげに深いため息をひとつ漏らす。
「彼のあの、食べない、眠らない、はどうにかならないものかな」
そんなに辛いのなら吉野を引き止めればいいのに――。
インターネットの発達した現代で、なにも現地にずっと居なければならない訳ではあるまいに。
平気な顔で見送っておいて、一人になるとどっと落ち込む。飛鳥の言葉や表情を鵜呑みにすると、こっちが馬鹿を見る。かといって、一国の皇太子の側近として働いている吉野の首に縄をつけて連れ戻す訳にもいかず、ヘンリーは、焦燥感から吐息を漏らした。
サラが不安げにヘンリーの袖を引っ張った。
「アスカは何が気にいらないの? ヨシノはちゃんと成果をあげている。すべて順調よ」
ヘンリーはふわりと微笑んで、サラの頭をぽんと撫でる。
「不満というより、たんに寂しいのだと思う」
「今までと何が違うの? 今までだってヨシノは学校でいなかったじゃない」
「そうだね、何が違うのだろうね――。殿下の国が政情不安定な場所だからかな。ヨシノのプロジェクトには、政治や経済が深く絡んでいるしね。彼の周りにいる人物が一筋縄ではいかない相手ばかり、というのもあるかな。不安要素はたくさんあるよ。でも一番の理由はきっと、彼が自分の意志でそこにいるってことなんだろうね」
こうして言葉にすると、彼の口からは、ため息ではなく苦笑が漏れていた。
煎じつめればそういうことだろう。まったく依存しているのはどっちだ、と問いたい。「自由に生きろ」と言いながら、飛鳥は弟が自分の元から飛び立つと、情という手綱を引いて彼を呼び戻したくて堪らなくなるのだ。そして、そんな自分を飛鳥は許すことができなくて、自分自身を痛めつけて誤魔化す。周囲の一切に目を向けることなく――。
そんなヘンリーの不満をサラは理解できないのか、小首を傾げている。
「まぁ、そんなに心配はいらないよ。今だけだよ」
ヘンリーはゆっくりとティーカップを口許に運んだ。
そんな感傷的な情なんか吹き飛ばすほど、忙しくしてやる――。
と、なかば自棄っぱちな笑みを湛えて。
ヘンリーの無理難題を詰め込んだTS改善案が功を奏したのか、飛鳥の生活リズムも徐々に普段通りに戻っていった。
同じ食べない、寝ない傾向はあっても、頭を占めているのが仕事となるとこうも違う。疲れからか、ことんと死んだように眠りこけるし、自分でも気づかないまま、渡されたサンドイッチを口に運ぶ。
「まるで雛に餌をやっているみたいね」
ヘンリーの留守中飛鳥の世話をしているサラが、くすくす笑いながらヘンリーの耳許に口をよせた。
「きみもそんなふうだったよ。英国に来たばかりの頃は特にね」
懐かしそうに目を細めてヘンリーは微笑を返す。
「あら、私はちゃんと食べていたわ!」
「うん。角砂糖をね」
知らないと思っていたのに!
と、サラは唇を尖らせてぷっと膨れる。
「きみとアスカはよく似ているよ。外見じゃなくて中身がね」
学生時代を思いだし、ヘンリーは無意識に顔をほころばせていた。
「あの頃、僕はアスカのことがとても羨ましかったんだよ。きみのことを理解できるのは、唯一彼のような人だけなんだろうな、と思うとね」
「私はもうお砂糖ばかり食べたりしないわ。ちゃんと栄養バランスを考えて、」
「ヨシノの野菜をゴードンに世話させている」
「だって美味しいもの! アスカも喜ぶし。デヴィや、アーニーだって!」
「そうだね。アスカだけじゃなくて、ヨシノもだ」
「ヨシノは角砂糖は食べないわ」
「うん」
真面目な顔をして抗議するサラが可愛いくて、ヘンリーはくすくす笑った。
「そうじゃなくて、きみの中にある美しい世界のことだよ。僕のような人間には見えないんだ。でもアスカは、きみと同じ世界を共有しているだろ? そして、それを僕にも見えるように形にしてくれる。感謝してもしきれないよ。僕はアスカのガラスを通して、きみの心を見ることができるんだもの」
ヘンリーは、そっとサラの頬に手を添えた。
「きみは僕の憧れ。昔も、今もね」
ライムグリーンの瞳が揺らぎ、ふっと伏せられる。
「さぁ、手のかかる雛鳥に餌をやりに行くかな。そろそろお腹を空かせてピーピー鳴きだす頃だ」
ティールームを後にするその背中を見送るにとどめ、サラは小さく「いってらっしゃい」と呟いた。




